6-1 上京 一条邸 脱出
姫君の振りをするといっても、今の刻限、そこまで厳密に女装をする必要はない。
遠目に愛姫に見えればそれでいいので、直垂の上に明るい色の小袿を着て、更に頭にひらひらと人目を引く衣をかぶる予定だ。
わざとらしいだろうか。いや、とりあえず勝千代の方に注意を引けばよいのだ。
目の前には、数人のグループに分かれた女房殿たちが、青ざめた顔で寄り添いあって震えている。
「……しっかりおし」
か細い声でそう言ったのは、先程勝千代らの元へ話を聞きに来た女房殿だ。
化粧を落とし、男性用の直衣を身にまとった姿は、ややチグハグさを感じさせはするものの、不安そうな女房殿の中ではひときわ頼もしかった。
彼女が御嫡男万千代さまを抱きかかえお運びするそうだ。
他にも男装したもう一人が生まれて間もない姫君を、小次郎殿が愛姫さまを連れて行く段取りをしている。
北の御方はお残りになると言う。
ご無理をすれば動けなくもないだろうが、まだ産褥の名残があることもあり、一条邸にお残りになり、周囲の目をしばらくは邸内にとどめ置く役目を買って出られた。
伏見宮家の姫君であらせられる高貴な身分の御方に、めったな事はしないだろうという希望的観測によるものだ。
確かに、御子らよりはいくらかは安全かもしれない。だが御身を人質にされる可能性もあるのだと、小次郎殿が幾度となく説得していたが、御方様は足手まといになるからと首を縦には振らなかった。
勝千代は直接その御顔を拝見したわけではないが、御簾越しの御声が意外としっかりとしたもので、愛姫の母だという印象を強く感じた。
「……お頼みいたします」
強い決意を感じさせるその声に、「はい」以外の返答をすることができなかった。
もちろん、まだ一条邸を脱出する必要があるかはわからない。
そうする必要がいつ起きるかも定かではない。
誰もが、畏れている事態にならない事を願っていた。
「……若」
逢坂老の低い小声が勝千代に注意を促す。
誰もがこわばった表情で、耳を澄ませる。
表から足早に駆けてきたのは、小次郎殿だ。
「付け火犯が逃げ込んだとかで、屋敷改めと称する者どもが軍勢で通りを占拠しております。今伊勢殿が」
不自然な部分で言葉を切った小次郎殿にも、おそらく詳しい状況はわかっていないのだ。
事態はますます混迷し、どう判断するべきかもわからなくなる。
軍勢が通りを占拠? 北条とはまた違う勢力だろうか。
いますぐにも計画を実行に移すべきか?
状況の把握に努めるべきか?
「……失礼致します」
女物の小袿を羽織ったまま、勝千代は立ち上がった。
遠い御簾に向けて一礼してから、素早く襖障子を開けて外に出る。
さっと庭園に目を走らせ探すと、若干遠くに福島家の者たちが控えているのが見えた。
遠慮して、距離を置いていたようだ。
おそらく、現状を最もよく理解しているだろう弥太郎の姿はない。
一緒に出てきた東雲が、庇の下まで来ていた鶸から何やら報告を受けていた。
ふっと視界の隅に動く影があることに気づき、そちらに目をやると、松の木の下に弥太郎がいた。
不自然に片腕がぶらりと垂れ下がっている。
まさか……負傷したのだろうか。
すぐにそれが、抜き身の刀を持っているからだと察したが、その尋常ではない雰囲気にヒヤリと肝が冷えた。
「若」
再び逢坂老に促され、勝千代の制止していた時間が動き始める。
「何があった」
「この屋敷に火がつけられたようや」
勝千代の問いかけに答えたのは東雲だった。
その若干上ずった声に、ひゅっと息を飲んだのは誰だったろう。
「火元は」
「厨、侍所、東の対」
「すべて同時にですか?」
「そのようや」
一条家の警備が、表の騒ぎに気を取られている隙にやられたようだ。
もはや猶予はなかった。
勝千代は無言で小袿を翻して部屋に戻った。
話が聞こえていたのだろう、女房殿たちは既に立ち上がっていて、決めておいた通りに御子らの周りに集まっている。
「……おたあさま」
万千代君の涙交じりの声に、ぎゅうと胸が引き絞られる。
そんな弟をぎゅっと抱きしめたのは愛姫様で、「ないてはなりませぬ」と、彼女自身涙声で言った。
「姫様、若様、御方様のことはお任せください。必ずご無事で再会を果たせるとお約束いたします」
薄暗い室内で、きらきらと涙で濡れる大きな目が勝千代を見上げた。
愛姫様も、状況が思わしくないのは察していただろう。だが、何一つその不安を口にすることはなく、小さくひとつ頷いた。
「……ご無事で」
御方様が御簾越しに我が子らへそうお声を掛けたのが、最後だった。
御子らが北対から散り散りに遠ざかっていく音に、しばらくじっと耳を澄ませる。
通りに兵が配置されているのであれば、安全に隣家まで行けるとは限らず、無事にたどり着けたとしても、屋敷改めとやらに見つかってしまう可能性はある。
ここ一条邸の周囲に住む者はそれなりの高位の公家だし、すでに匿ってくれると言う心強い返事ももらえているから、一か所にあつまって火の手に怯えるよりはよっぽど生存率は上がると信じている。
だが、厳密な意味での安全など、今のこの京にはないのだ。
「……御方様」
非礼は承知の上で、勝千代は御簾越しにぼんやりと見える影に直接話しかけた。
「お供いたします故、どうか一緒にいらしてください」
「その者の言う通りです。火の粉の匂いが」
お付きの若い女房殿が懇願するようにそう言うが、御簾の向こうで首を左右に振るお姿が見て取れる。
「足手まといになるという理由でしたら、ご心配なく。御心を決めさえしてくだされば、我らが安全な場所までお連れいたします」
そう、御身分の事さえ気にしなければ、女性のひとりふたり、抱えて運べるのだ。
急に周囲に木の燃える臭いが漂ってきた。
パチパチと、激しく燃える音まで聞こえてくる。
御方様が迷っておられるのを気配で察し、勝千代は遠慮を捨てた。
「我らは田舎者の武家故に、高貴な方々への礼儀などはあいわかりませぬ。どうかご容赦頂きたい」
立ち上がり、さっと御簾に手をかける。
かなぐり捨てた御簾の向こうにいたのは、勝千代の目には、まだ年若い少女のように見える美しい人だった。
本能的に御方様を守ろうとしたのは、中門廊で松田殿の息子が来ていると教えに来てくれた女房殿だ。
勝千代はかまわず踏み込み、その数歩前でそっと片膝をついた。
「愛姫様に、必ずお助けすると約束しました」
はっと息を飲む音が聞こえる。
「さあ参りましょう。火の手も近づいております」
差し出した手が取られることはなかったが、しばらくして、その美しい御方はかすかに頷いた。




