60-3 東三河 山裾
大勢が一か所に集まると、当たり前だが他所は手薄になる。
勝千代ら一行は派手な目くらましに便乗して、無事山裾に逃げ込む事ができた。
ここまでくれば、明け方までに父と合流できるだろう。
眼下に広がる草原は整備されてはいないので平らではなく、ところどころにこんもりとした丘や林があり、勝千代の背丈ほどの茂みも多い。
その茂みのどこかからいつ敵が襲ってくるかわからず、闇の中を進むのは大変肝が縮む思いがした。
それに比べてここから先は山地になる。歩くのには苦労するが、敵が近づいてくるのも見つけやすいので、随分と気が楽だ。
真っ暗な草原には、ところどころで松明が動いている。大きな焚火を焚いている所もある。
やはり夜は足元が危ういので、休息する者もいるのだろう。
草原にいるうちは気づかなかったが、けっこうあちこちで焚火が焚かれているのを目にして、ようやく逃げ切れたのだと実感できた。
あんな敵だらけの場所を、よく無事に突っ切れたものだ。
いや、気を緩めるのはまだ早い。今も気づかないだけで、敵が迫っている可能性はゼロではない。
勝千代は無言のまま夜の草原を見つめ続けた。
索敵に出た弥太郎が戻るまで、一刻はかかるだろう。こんな時に二時間は長すぎる待機だが、情報を得る事の方が大切だ。
先程の騒ぎで集まったのは、おそらく五百以上もの兵だ。そこからもわかるように、いったん騒ぎが起これば方々から細川兵が押し寄せてくる。
つまりは敵にエンカウントしないことが第一なのだ。
長いようで短い待ちの時間が過ぎ、勝千代は戦っていた。……押し寄せてくる眠気と。
戻って来た弥太郎からの報告を受けて、考えるべきことが色々とあるはずなのに、子供の身体は正直だ。生あくびを噛み殺し、聞いた言葉をそのまま繰り返す。
「波多野?」
疲れているし、夜も遅い。子供はとっくに寝ているべき刻限なのだ。
目を擦ってちょっとだけ滲んだ涙をぬぐい、どこで聞いた名だったかと頭の中の引き出しを攫る。
そうだ、たしか管領殿に切り付けられたという重臣がそのような名前だった。
「戦に紛れて身を隠したのではないでしょうか」
よそ様の事情はよくわからないが、穏やかではない状況だ。
この泥沼の戦況下で、腹心をひとり処罰するなど相当だ。
ふと、あの土気色の顔を思い出した。弥太郎は毒ではないかと言っていた。管領殿はその毒を盛ったのは波多野殿だと思い、切り付けたのかもしれない。
「追っ手がかかったということは、管領殿は逃亡したと気づいたのだろうな」
「わかりません。追っ手は例のアレでした」
「アレ?」
勝千代は気づかなかったが、あの暗がりで一際大声を出していたのは、典厩家嫡男弥九郎殿だったそうだ。
見つからなくて本当に良かった。
「……波多野殿は生きているのか?」
「配下の者に背負われ川の方へ逃れたと、探索はそちら方面に集中しています」
勝千代は小さく息を吐いた。
重傷を負ってなお戦場を引きずり回されるなど、命を縮めているようなものだ。
しかもあの中には子供もいた。「叔父」と呼んでいた。波多野殿の身内かもしれない。
「実際のところは、山側に逃れたかもしれません」
ぼんやりと、子供が戦場にいることについて思いを巡らせていた勝千代は、珍しく迷うように口ごもる弥太郎を振り仰いだ。
「根拠は」
「追われている者の中に、子供がいませんでした」
暗くてわからなかっただけではないか、と言おうとして黙った。
忍びは常人よりもずっと夜目がきく。弥太郎が違和感を覚え報告してきたということは、その可能性が高いとみていいだろう。
「細川軍もそれに気づき、山側に探索の手が向くかもしれません」
厄介なことだ。
勝千代はもう一度こぼれた、ため息かあくびかわからない息を噛みしめ、腰かけていた岩から立ち上がった。
山に逃げ込んだからと気をゆるめ、のんびり休憩しているわけにもいかなくなった。
早めに移動した方がいいだろう。
フラグというのはなかなか侮れないものだ。
想像した良くない展開は、いずれ現実になると考えておいた方がいいのかもしれない。
勝千代はそう長くいかないうちに、両脇を歩く複数名に歩みを止められた。
夜の山道なので、平地を歩くのとはまた違う苦労がある。木の根や石などに足を取られないようずっと下を向いていたので、両腕を掴まれるまで制止に気づかなかった。
転ばないようにしてくれたのかと思ったが違った。
顔を上げて初めて、その場の緊張感に気づいた。
ざわざわと山の木々が揺れている。誰ひとりとして声を発する者はいない。
代わりに聞こえるのは、鋼が滑る音だ。
急に分厚い雲が切れた。月の明かりが木々の間から差し込み、森の中にぽっかりと空いたその空間を照らし出す。
これも引きが強いというのだろうか。
あるいは運命の指し手がどこかで糸をたぐっているのだろうか。
豊川方面に逃れたはずの波多野殿とその一行が目の前にいた。
まるで映画のワンシーンのように、少年が身を盾にして瀕死の男を庇い、こちらを睨んでいる。
取り囲み威圧するのは追っ手ではないのだが、彼らにそれが分かるはずもない。
怯えた表情だ。だが、決意のこもった強い目だ。
勝千代は無意識のうちに手を上げて、戦いに備える者たちを制していた。
それがまた良くなかったのかもしれない。
波多野一行のうちの一人が、急に飛び出して距離を詰めてきた。
目標が勝千代なのがはっきりとわかった。
「父上!」
数時間前にも聞いた甲高い声だ。
「兄上を連れて逃れるのだ!」
「そんなっ」
「迷っておる場合ではないっ」
「父上! 父上っ」
……いや、盛り上がっているところ非常に申し訳ないのだが。
勝千代には、冷静にその場を観察する余裕があった。
それだけ自身の護衛を信頼していたし、彼らが焦る様子も見受けられなかったからだ。
「うおおおおおっ」と叫び声を上げながら迫ってくるずんぐりとした男と視線が合った。
首を傾けると、露骨に怯むのが分かった。
大多数の敵に囲まれて、その逡巡は致命的だ。
「父上!」
少年の悲鳴が夜の山に響き渡り、どこかで野鳥が飛び立つ音がした。
いい加減声量を落としてほしい。追っ手に見つかったらどうするつもりだ。
だが、仕方がないとも思った。
勝千代とて、父が地に伏したら同じような悲鳴を上げるに違いないから。




