57-1 東三河 吉田城 和睦交渉1
夜が明けてしばらくは、ぬかるんだ地面がまるで沼地のようにテラテラと光って見えた。
まだ雲が分厚い曇天、陽光は薄く、雲の向こう側から陰鬱に朝を告げている。
しかしその情景も、昼近くになるにつれて明度を増し、やがて差し込む晴れ間が眩いばかりに草原を照らし出した。
水は思いのほかすぐに引いたように見えた。
草原地帯なので水はけがいいのだろうか、あるいは海までの距離が近いので、一気に流れて行ったのかもしれない。
だが残されたのは泥まみれの草木。
太陽の光の眩しさも、半乾きの泥の匂いを誤魔化してはくれない。
ところどころに残っている旗指物や武具の残骸が、すべてが夢ではなかったのだと物語っていた。
不思議なことに、死体は一体も見当たらなかった。皆土砂に埋まったのか、あるいは海まで連れて行かれてしまったのかもしれない。
中には浅瀬にたどり着けた者もいるだろう。だが大勢の命が大水に呑まれて消えて行ったのは確かだと思う。
勝千代は漠然と「大勢」と感じていたが、それが細川軍にとってどれぐらいの被害だったのか定かではない。
三万の大軍の主力となる部分に一撃を及ぼせたのか、引き延ばされた手足がもげた程度なのか、あるいは横面を軽くはたいた程度かもしれない。
川の水は相変わらず多い。だがしかし、溢れた部分はすでに足場が悪い沼地状態。徒歩での移動は十分に可能だ。
生き残った者たちが激怒して吉田城に押し寄せて来ないとは言い切れなかった。
「和睦を急いだのは正解ですな」
天野殿はそう言って細長い顔をしきりに上下させているが、朝比奈殿は変わらず無表情。渋沢はどう見ても戦い足りない雰囲気だ。
相手は十倍だぞ。この氾濫でどれだけ削げたかはわからないが、絶対にまだこちらよりは多い。
「細川の兵糧はどうだ」
勝千代の問いに、戻って来ていた段蔵が小さく頷いて頭を下げる。
「小荷駄隊が幾らか水に持って行かれました。ですが、細長い陣形です。すべてというわけではありません」
「船でも追加の荷を運べるしな」
資本が潤沢だということは、つまり何でも銭で解決できるということだ。
溜息をついて、「ではやはり急ぐべきだ」と呟く。
和睦の使者は既に送った。
興津が立候補して、十騎ほどを率いて午前中に出ている。
「それにしても」
天野殿が、騒がしい城下町の喧噪に苦笑した。
こんなところまで聞こえてくるほどに、町には大勢の兵が集まってきている。
その多くは東三河の国人衆であり、要するに今更ながらに合力を表明した形だ。
敵の被害がまだ定かではないうちに気が早いというべきか、あっさり手のひらを返したと呆れるべきか。
この時代を生き残るためには風を読むのも必要なことなのだろうが、合力するのならもっと早くそうするべきだったし、日和見したいのならその意思を貫くべきだと思う。
東三河の小国の国人領主たちは、遠い地を治める細川家ではなく、隣国の巨人今川を恐れたのだろう。
これ以上の遅参は、対今川という意味において危険だと判断した。
西三河が細川に従っていることも理由のひとつだろう。
理解できなくはない。勝千代がそれを今更と感じ、好意的には受け取れないだけだ。
「勝千代様を水龍の御使いとお呼びしているそうですよ」
藤次郎の言葉に、盛大に噴き出したのは勘助だ。刺すような視線が周囲から勘助に浴びせられるが、当の本人は全く気にした風はない。
昨日からずっとテンションが高く愉しそうなのはいいのだが、その笑い方ひとつ取っても人を不愉快にさせる。もはや才能だ。
勝千代自身の意見といえば、勘助寄りだった。何が「水龍の御使い」だよ。
「何と呼んで持ち上げてこようが、用心は怠るな」
「もちろんです」
城下の治安は渋沢担当だ。勝千代の指示にきっぱりとした頷きを返してくるが、その目は恐ろしく険しく、ずっと勘助から離れなかった。
吉田城二の丸大広間。
豊川から少し離れた、城の一部というよりも平屋の屋敷、イメージ的には陣屋のような武骨な建物だ。
細川陣営からの使者は、見覚えのある若い武士だった。
叡山前で揉めた、あの輝かしい頭部の持ち主だ。
眼光鋭く上座に座る勝千代を見据え、口上の端々から抑えきれない敵意が伺える。
誰だよこいつを使者にしたのは。そもそも和睦をする気がないんじゃないか。
段蔵の追加の報告によると、数日後には兵糧の補充はかなうだろうが、今現在、細川連合に食料は行き渡っていない。
和睦するのなら早急に、しないのならば時間稼ぎをしたいところだろう。あるいは、降伏の言葉を聞こうとしているのかもしれない。
使者が誰か察した時、勝千代の中での方針がまた別の方に動いた。
こういうところでそれとなく本願寺の出番なんだよ。わかるだろう勘助。
殺意すら含んだ視線に対して、小さく溜息をこぼしただけなのに、それにすら敏感に憤怒の反応が戻ってくる。
勝千代は脇息に肘を置き、手に持っている扇子をぱちりと鳴らした。
「一別以来ですね、典厩の若君」
細川典厩家嫡男弥九郎殿は、そんな勝千代の態度に腰を浮かせて刀に手を伸ばそうとした。
もちろん今川側も即座に反応する。
刀を抜き、槍を構え、部屋の外からは矢をつがえる音までする。
意外なのは、腰を浮かせた弥九郎殿の腕を残りの使者たちが必死に押しとどめている所だ。
こいつがこんな反応をするなどわかりきっていた。止めるぐらいならそもそも使者にしなければ……まさかここで殺されることが役目だとか?
勝千代は八人の使者たちをひとりひとり観察した。
その中に、弥九郎殿のストッパーになり得る例の伯父御はいない。猪の首輪を掴んで止める役割をするのが、今必死にその腕を掴んでいる者たちだけというのはあまりにも心もとない。やはり打ち首前提の使者なのか? いやでも細川典厩家嫡男だし。
数か月で状況が変わったのかもしれないが、それでも、殺されるためだけの使者に選ばれるほど低い身分の男ではない。
「わざわざ吉田城にいらっしゃるぐらいですから、和睦の交渉に応じてくださるということでよろしいですか?」
「弱小兵を率いて討ち死にする前に、その間抜け面を見に……」
今度は使者たち二名追加で弥九郎殿を背後から抑え込み、その口を塞いだ。
いや、縋るような目でこちらを見られても、本音は全部聞こえたから。
「……なるほど?」
「ち、違います! 違いますので!!」
違わないだろう。
残りの使者にそんなつもりはなくとも、勝千代への、今川家への憎悪は隠されてさえいない。これが分っていて使者に選んだ総大将殿の目的など露骨すぎるほどわかるじゃないか。
「残念な結果です」
勝千代は端的に結論を告げた。
弥九郎殿はもごもごと何かを言おうとしているが、四人がかりで押さえつけられ身動きすらできない。
勝千代は少し考えて、扇子で口元を覆った。
「管領殿はどうして弥九郎殿を御使者に? 不調に終わるとわかっていたはずでしょうに」
殺されると思わなかったのか? 生きて帰れたとしても、和睦がうまく行かなかった責任を取らされるとか?
そういう意図で吉田城に送られたのではないかと、言外に告げて毒を注入してみる。
使者たちのぎょっとした表情と、大きく目をむいた弥九郎殿の激怒の唸り声に、強いてそれ以上の言葉は続けずニコリと笑顔を返した。
細川陣営に和睦のつもりがないのは、昨日の氾濫でも思っていたほどの被害にはなっていない、あるいは、まだ今川よりも優位だと信じているからだ。
あの程度では足りなかったんだな。
勝千代は次なる手を打つべく、思案を始めた。




