56-6 東三河 吉田城2
吉田城に今川の本陣を置くことにした理由は、ここから先に細川連合軍を進ませないという意思表示と、日和見の東三河勢への牽制の為だ。
この状況で背後を突かれると、今川軍にとって致命的な敗北をもたらしかねない。
最終的な目標である和睦にこぎつけるまでは、余計な茶々入れをされるわけにはいかなかった。
常識的に考えれば、三万の軍を相手に、わずか三千に満たない兵力では勝てないだろう。単純な算数の問題だ。
だが戦況は生き物だ。特に敵が烏合の衆であり、主力の士気が低いと判断? いや断定してしまえば、やりようはある。
興津がその先鋒を見事退けたと聞いたとき、勝千代の心中に込み上げてきたのは「できる」という確信だった。
ひとの感覚は状況につられる。
三万の進軍と聞いて、東三河勢が今川家の顔色をうかがうのではなく、日和見に徹し動かなかった理由もそれだ。
であるならば、その逆の現実を見せつければよい。
今川家は、京風の雅な家風を誇る大名家だというわけではない。
たった数年前のことを忘れたのか? 強い牙と爪で遠江を奪い取り、三河にまでその手を伸ばそうとしていた。
御屋形様が健在だった頃を思い出したのだろう。さっくり吉田城を下した今川軍に、近隣の諸家から次々と使者が来ている。
もちろん細川家に配慮しつつ、様子見の意味合いが強いのはわかっている。
味方に付くつもりがないのならば、勝千代が会う理由はない。
数年の雌伏を越え目覚めた今川軍を、口を開けてみているがいい。
「……勘助が到着いたしました」
渋沢が表向きは平然とした、内心は明らかに不服と感じているのだろう表情でそう言った。
勝千代は相も変わらず豊川の蛇行した流れを見つめながら、「通せ」と端的に命じる。
吉田城を攻めると決めた瞬間に、この場に勘助を呼ぶことを決めた。
目的はただ一つ。この城で戦うために必要だからだ。
長くこの城で鬱積した歳月を過ごしたあの男が、この城を攻め落とす方法を考えないわけがない。
ことこの周辺の地形や事情について、あれほど詳しい男はいないはずだ。
やがて重いものを引きずるような音とともに、真っ青な顔をした勘助が本丸の回廊を歩いてきた。
片足がない男が身に着けているのは義足だ。木製の廊下を独特の音をたてながら近づいてくる。
片足故にバランスがとりづらいのか、片目故に平衡感覚が定まらないのか。その歩行はふらついていて、速度も遅いが、誰かの手を借りてはいなかった。
勝千代が勘助を呼んでからまだ三日しか経っていない。高天神城まで早馬で往復するのは、早駆けが得意な者でも厳しい日程だ。
きっと勘助は荷物のように運ばれたのだろう。その顔色の悪さは、明らかに馬酔いの症状だ。
振り返ってその表情を一瞥し、ただ一言、「できるか」と問う。
勘助はそんな勝千代の顔をぎろりと睨んでから、「ふー」と濁音まじりの息を吐いた。
「優先順位を三つあげてください」
「毒は使うな」
「優先順位です」
かつてのこの男の顔を知っているわけではないが、少年期を知っている者たちにも、その面影がわからないのではないか。
憮然とした顔は人相が悪いどころではなく、顔面の半分は刃物傷で歪み、長年の不摂生がたたったようにむくんでいる。
陰気な質がそのまま面に現れ、長年薄暗い場所にいたせいもあるのだろう、目つきも顔色も悪い。
「細川を追い返すこと」
「豊川を渡らせないこと」
「今川の名に「負けた」と土をつけないこと」
少し考えた末でのその答えに、勘助は至極不機嫌そうに唸る。
「それだけですか」
ずいぶんつまらなさそうだな。
勝千代はじっと勘助の顔を見つめてから、言葉を続けた。
「大きな勝ちは望まない。名誉も戦功もいらぬ。この戦をなかったことに出来れば一番良い」
「でしたらば、本願寺のものどもにやらせるのが最も手間がない」
「罪もない者たちを道具として使い捨てにするわけにはいかない」
またも細川軍で本願寺派の騒動が起これば、彼らがより目を付けられ、宗教的な締め付けも強くなるだろう。
非力な農民たちがより不遇になるとわかっていて、無理に彼らに騒ぎを起こさせるのは気が進まない。
「恨みも負うてくれるのならそれでよいのでは」
「勘助」
四年前に勝千代がつけた名を呼ばれ、勘助はぎゅっと鼻頭にしわを寄せた。
「最短の道が知りたいわけではない。正道を望んでいるわけでもない。最善への献策をしてほしい」
「……最善ですか」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らした勘助の背後で、勝千代の護衛らが刀に手を置く。
特に谷は既に鯉口を切っていて、親指一本分ほどの刀身がギラリと陽光をはじいている。
勝千代はちらりとそれに目を向けてから、話を逸らすように豊川へ向かって顎をしゃくった。
「例えば……そうだな、随分と水量が多い」
「今年は雨が多かったので、常よりは」
勘助は用心しながら立ち位置を変え、谷らに背中を向けないよう柱の方へ身を寄せた。
「あの場所で堤を崩せば、どこまで水が来る」
「城向いの対岸の方へ流れるのでは」
勝千代の認識では、堤とは人工的に作られた治水機構で、意図して都合がよい場所で洪水を起こして、町などに水が来ないようにしたものだ。
だが、人工的にそういうものが作られるのはもっと先の時代、今は天然に土砂が積もりこんもり丘のようになった部分を指す。
今はまだ、川の流れをコントロールするという意識はないのだ。
「あるいは、城下まで水が来る可能性もあります」
勘助は軽く肩をすくめて、正直に「わからない」と答えた。
だがしばらく勝千代と同じ部分をじっと見据えて、何かを考え付いたようにぼんやりと「……いや、これだけ水量があれば」と呟く。
「例えば、例えばだ。押し寄せてくる兵が川を渡る前に、水があふれて……」
「ちょっとお待ちください」
勘助が無造作に手を上げ、勝千代の言葉を遮った。
またも腹を立てた様子の谷が、苛々と刀をもてあそぶが、既にもう勘助の眼中には入っていない。
勝千代はそんな彼らをパタパタと手を振って宥め、勘助の熟考の邪魔をしないように黙っていた。
勝千代が漠然と想像したのは、先の世で軽く学んだ霞堤の機構のことだ。
本当はもっと上流で、わざと市街地ではない部分に氾濫を起こす、あるいは意図して農地に豊かな土を流すために護岸に切れ目を入れたような構造だった。
詳しく学んだわけではないので、よく覚えてはいないのだが、川の植生が専門の教授について歩いているときに教えてもらった記憶がある。
もちろんその機構の詳しい部分を思い出したわけではなく、「わざと水を溢れさせる」という部分を思い出しただけだ。
「勘助」
勝千代はしばらく黙ったまま並んで川を眺めていたが、やがて西日が差し始めた空を見上げて呟いた。
「明日ごろからまた雨がふるそうだ」
ここ数日はいい天気が続いた。
だが西の空に夕焼けはなく、落日は暗い雲に覆われている。
どれぐらいの雨が降るのかはわからない。
だが、川の水量はさらに増すだろう。




