5-5 上京 一条邸 中門5
中門廊まで戻ってみると、先程の鬨の声は何だったのだろうと思う程に静かだった。
地鳴りのようだった役人たちの野次が止んでいて、代わりに音をたてているのは、バタバタともがいている子供だ。
その口から獣のような唸り声と、「離せ! 無礼者! そのほうも切り捨てられたいか!」と、顔を顰めたくなるような怒声が、周囲の沈黙を更に重くしている。
「無位無官の子供の身で、許しなく土足で一条邸に踏み込もうとは」
先ほどは玄関先に悠々と座っていた東雲が、立ち上がっていた。
あからさまに語気に不快感を混ぜ、白い扇子を苛立たし気に突きつけている。
基本的に寸鉄帯びない公家にとって、扇子は刀の代わりだ。
何があったのか、尋ねるまでもなかった。
吉祥殿が最前列にいて、若い役人に上半身を羽交い絞めにされ、じたばたともがいている。
……限界だった。
「抜刀を許す」
はっと息を飲んだのは、勝千代の側付きだったか、近くにいた一条家の武士たちだったか。
早速目をぎらつかせ、刀の柄に手を置いたのは護衛組の谷だ。
「……よろしいのですか?」
南が不安そうに言い、勝千代はそれに対して苦笑した。
「良いわけはないが、一条邸に踏み込ませるわけにはいかぬ」
そんな事を許してしまえば、公家対武家の構図が引き返せないところまで行ってしまう。
……いや違うな。これは幕府と公家の諍いだ。
公家に味方し、ここぞとばかりに足利将軍家を責める武家も出てくるだろう。
果たしてこの件が公方様の責任かと問われると、勝千代的には微妙だが、身内の罪は連座という考え方があるこの時代ではそうではない。
家長である公方様がすべてを負わされるだろう。
「吉祥さまに傷はつけるな。他の者たちは可能な限り口の利ける状態で……」
「お待ちを」
勝千代が指示を出していると、土居侍従の孫小次郎殿が近づいてきて、騒いでいる吉祥殿を格子越しに見た。
「ここは我らが。お客人の御手を煩わせるわけに参りません」
見ると、これまでは門前で刀に手を掛けず直立していた武士たちが、一斉に腰を低くし抜刀の姿勢をとっていた。
勝千代は、急に戦意がなくなった役人たちを見て、違和感を覚えた。
あれだけ野次を飛ばし、摂家への非礼など気にも留めない様子だったのに……何があったのか。
騒ぐ吉祥殿。
急に青ざめ、立ち尽くす役人たち。
「捕えよ!」
土居侍従の声と同時に、一条家の武士たちが躊躇なく抜刀した。
もしかすると、歯向かってこないと思っていたのかもしれない。
口ほどにもなくすぐに投降した役人たちの姿に、勝千代はふとそんな事を思った。
土居侍従の合図とともに、門を塞いでいた者とは別に大勢の武士たちが現れ、あっという間にその場は制圧されてしまった。
勝千代が気を揉むまでもなく、いつでも対抗することはできたらしい。
ここまでそれをしなかった理由は、幕府への配慮なのだろうが、そもそもこの襲撃自体が一条家への配慮に欠けるどころか、非礼極まりないものなので、堪忍袋の緒が切れたというところだろう。
この決断を下した土居侍従は責められるだろうか。
いや、無理やり土足で踏み込もうとしたほうが悪い。
これまでやたらと喚き散らしていた吉祥殿が、ふと静かになった。
そろそろ状況が分かってきたのかとそちらを見ると、若い役人に羽交い絞めにされたままぐったりしている。
……おい、腕が首に回ってるぞ。
その青年はますます興奮する吉祥殿を気絶させたらしい。
あれが松永九郎か。確かに松田殿の息子と同年配の若者だ。
そしてどうするのか見ていると、松永はやおら吉祥殿をその場に放り出し、ガバリと両手をついて頭を下げた。
主筋の若君だろうに、そんな扱いをして大丈夫なのか?
先程まではあれほど能弁に東雲とやりあっていたのに、申し開きも謝罪の言葉もなく、ただ地面に額をこすりつけている。
その姿勢は、一条家の武士たちに取り押さえられ、腰のものを奪われても、微塵も揺らがなかった。
その場のすべての侵入者が拘束されるのを確認してから、勝千代は中門廊を進み車寄せのある玄関口に近づいた。
いまだ仁王立ちの東雲と、険しい表情の土居侍従の斜め後ろで足を止め、改めて自称役人たちの無様な姿を観察する。
京のひどい治安を見れば、役人とは「役にも立たない人」の略なのではと思っていたが、こんな程度の低い輩なら納得だ。治安を守るよりその逆を行きそうなこの男たちには、務めを果たす気すらないのかもしれない。
「お勝さま」
南に促されて振り返り、少し離れた場所に真っ青な顔をした松田九郎殿が立っていることに気づいた。
騒ぎに乗じて、勝手に屋敷内を移動したらしい。
何も指示しなかった勝千代の方にも問題はあるが、摂家の御屋敷内を自由に動いても良いわけがないのだ。
誰にも止められなかったのだろうかと顔を顰め、目立たないよう遠ざけさせようと口を開きかけ、思案する。
勝千代がちらりと見下ろしたのは、縄を打たれた松永九郎だ。
松田九郎殿によると、この青年は頼まれてここにいる。最後の最後では、吉祥殿を必死に止めようとさえしていた。
だからといって、役人の代表格として一条邸に乗り込んできた事実は消えないが……
このままだとおそらく、責任者のひとりとして詰め腹を切らされるだろう。
「東雲様」
勝千代は、ようやく緊張を解いた東雲の袖を軽く引いた。
「とりあえず、吉祥殿はここにはいない事にした方が良いです」
振り返った東雲は、眉間にしわを寄せ、かぶりを振る。
「……責任はとらせんと」
「ええもちろんです。公方様の将軍位を剥奪しますか? その他の者たちの官位を取り消しますか? 私がどうこう言う筋合いではございませんが、今回の件はそれを狙ったもののような気がします」
縄を打たれうつ伏せにされていた松永青年がピクリと身動きした。
「とりあえずこれ以上の騒ぎになる前に、吉祥様の姿が人目につかないように別室に運ぶべきです」
今回の一件が公になれば、声の大きな誰かが、公方様への責任を追及してくるだろう。
吉祥殿に罰を与えるべきだというのは同感だが、それがまた権力闘争の呼び水になりはしないか。
「もうじき伊勢様と権中納言様が駆けつけて来られます。事の始末は、あの方々に任せましょう」
勝千代も、東雲も、土居侍従も。言っては何だが、政治や権力とは遠いところに居る。
難しい政治判断が必要な事に、口出しできるような立場ではない。
東雲は疲れたように嘆息して「そうやな」と頷いた。




