56-1 遠江 天竜川
高天神城を出て、丸一日。またも川を渡るのに手間取った。
この時代の交通の便は、想像以上に悪い。
雨が多い国なので川が増水しがちで、そのたびに行く手を遮られてしまうのだ。
まるで、天が何らかの悪意をもって勝千代の行動を止めているかのようにすら感じられた。
うんざりしながら兵たちの川渡りを見守って数刻、朝比奈殿が騎馬で近づいて来たので、もうそろそろ出立かと腰を下ろしていた古い切株から腰を上げる。
朝比奈殿は少し離れた位置でひらりと下馬し、軽く馬の首を叩いてから勝千代に軽く一礼した。
「曳馬城には某だけで参ります。勝千代殿は先へお急ぎを」
「……え?」
勝千代は思わず声をあげた。
曳馬城に立ち寄らないとはどういうことか。予定ではその城下町で一泊するはずだった。
「ですが、上総介様にご挨拶をせねばなりませんし」
挨拶は良質な人間関係の基本だぞ。……まあ、お互いに気まずい間柄ではあるが。
思い浮かべたのは、会話が通じるか少し不安な上総介様の顔だ。
勝千代の微妙な表情をどう思ったのか、朝比奈殿は同意するように一度頷いてから、予想もしていなかった言葉を続けた。
「御屋形様が先をお急ぎになられるようにと」
「……はあ」
思わず、すでにもう視認できる距離にある曳馬城に目を向ける。
確かに挨拶に手間取れば時間を食う可能性はあるが、兵を休ませる目的も兼ねているので、多少待つぐらいはできる。
……もしかして、ほかに気がかりなことでもあるのか? たとえば、襲撃の恐れがあるとか。
言外にそれを含ませ改めて朝比奈殿を見ると、何故か軽く首を横に振られた。
この男の表情は読み辛いので、いまいちそれがどういう意味か分からない。
「ご挨拶なら某が」
いやそれは不味いだろう。勝千代が先に頭を下げるから意味があるんじゃないか。
勝千代が改めて、ここで兵を休める云々はさておき、挨拶はするべきだと言おうとすると、朝比奈殿は重ねて首を振った。
「御屋形様からの御指示です」
「……あまりいい感じがしませんが」
「妥当な御配慮かと」
何がどう妥当なのだろう。
「勝千代殿が曳馬城に立ち寄られますと、軍配をよこせと言われかねません」
「……それは」
あり得るのか? いや、ありえなくもない。
たった十の供回りでここまで来たのだ、身辺にもう少し兵を置きたいだろうし、勝千代よりも上の立場だという自覚もあるだろう。ご自身が総大将格であるべきだという言い分はわかる。
だがそうか、そうなれば土方で考えた策が思うように行使できなくなるかもしれない。
この微妙な局面で、万が一そういう指揮権争いのような事が起きてしまえば、勝てるものも勝てなくなる。
「御屋形様が直接曳馬までお出になられる予定です」
「それはもう御屋形様が総大将でいいのでは」
それなら上総介殿も、御台様とても文句あるまい。
だが、あの体調で更に先に進むことは可能なのか? 確実に命を縮めているようにしか思えない。
「某がその旨をお伝えに上がります。勝千代殿は先へお急ぎください。御屋形様はあくまでも後方、勝千代殿に軍配を預けるお気持ちは変わりません」
本当はそれもどうかと思うのだ。
目の前には、譜代の重臣である朝比奈殿がいる。この男のサポートがあるからこそ安心して任せる事ができるというのが実際かもしれないが、元服もまだの子供を、たとえ仮置きとはいえ総大将役に据えるなど本来であればあり得ない。
今川はよほどの人材不足かと思われるだろう。
「策がうまく作用しなかった場合、敵に押し込まれます。上総介様ではしのげまいというのが御屋形様の御判断です」
「いや、十倍の敵に押し込まれたら誰だってしのげません」
「一気に十倍の敵が押し寄せてくるわけではないとおっしゃったのは勝千代殿ではありませんか」
それはまあそうだ。特に相手の士気は低く、戦う気がない連中が多いだろうと推察している。
だが三万だ。いや実際はそれよりも少ないのかもしれないが、表面上はそれだけの圧倒的な兵差がある。
兵数の差は物量の差だ。無尽蔵に近い敵を完璧にしのげるかと問われると「無理」と答えるしかない。
そこでふと気づいた。
朝比奈殿は勝千代を曳馬城に近づけまいとしている。それは果たして指揮権云々だけが理由だろうか。確かに重大な問題ではあるが、もっと他に訳があるのではないか。
「朝比奈殿は……」
御屋形様から他に何か指示を受けたのか、そう問おうとして、その毅然とした表情、普段から無表情なりの彼の顔に、確かに何かを読み取った。
それが何か吟味するより先に、朝比奈殿は丁寧に頭を下げた。
「それではしばし隊列を離れます。半日で追いつきますので」
兵は砦で休ませろということか。あのあたりには東三河の町も点在しているから、無理だということはない。
朝比奈殿は勝千代が言葉を探しあぐねている間に、さっさと馬首を巡らせ数騎の供をひきつれただけで離れていった。
一抹の不安が頭を過る。
朝比奈殿が危惧しているのが、曳馬城での何がしかの悪意なら、それが朝比奈殿へ向くことはないのか?
あの男は腕が立つので、勝千代ほど無防備にやられてしまうことはないのだろうが、それでも武器を取り上げられるという可能性は十分にあり、そうなれば抵抗もままならないだろう。
「弥太郎」
「はい」
いつも通りのタイミングで、どこからともなく即座に返事が返ってきた。
「朝比奈殿の護衛を」
勝千代の指示に、露骨に「その必要があるのか」という顔をしたのは土井をはじめとする側付きの面々。
弥太郎は粛々と頭を下げ、すぐにさっと気配ごと姿を消した。




