5-4 上京 一条邸 中門4
来訪者松田は松田殿ではなかった。
いや、事実松田殿なのだろうが、勝千代が知る例の茶髪の男ではなかったと言うべきか。
足早に入室した子供に目を丸くしたその若い男は、目が合ってはっとしたように頭を下げた。
「松田七郎左衛門尉が息、九郎と申します」
息子さんだった。
何故、元服を済ませて一、二年ほどの、まだ少年の雰囲気のある九郎殿がここにきたかについて、詳しい事情をのんびりと聴いている暇はなかった。
それは彼の方も同感のようだ。
さらに言うと、先ほどの、東雲と問答を繰り返していた若い方の役人は、松田親子に頼まれて時間を稼いでいるらしい。
急ぎ一条邸に伝えよと託されたが、父松田殿にさえ敷居が高い摂家の屋敷だ。彼が使える伝手といえば、勝千代しかなかったのだという。
「つまり、御父上に申し付かってこちらにいらしたわけですね。肝心の松田様は?」
「父は、竹王丸君により蟄居申し付かりました」
その口調には、激しい憤りと不満があった。
「このまま傍若無人に振舞い続けると、足利将軍家の権威が失墜すると御諫め申し上げた所、何様だと脇差で切りつけられ、気味悪い髪色よと髷を落とされました」
「なんと」
髪を!?
「……なんとむごい事を。お怪我の具合は?」
「ありがとうございます。そう言ってくださったのは、松永に続いて二人目です」
松田九郎くんの親友松永九郎くんは、例の問答中の青年だそうだ。
「命に別状はないそうですが、すぐには動けません。故に若輩者の某が」
なんでも、髷と同時に利き腕も落とされかかったそうだ。
子供の力故に脇差は骨を断つことが出来ず、あまりの出血量に吉祥殿が怯んだので、周囲の者たちが急ぎ御前から遠ざけてくれたそうだ。
「それで、御父上はなんと」
「はい。この度の状況に至った経緯を」
今それをのんびり話している場合なのか? 勝千代はこのまま話を聞くか迷ったが、かといって何か解決策があるわけでもなし、何より、勝千代相手に下座で待っていた事からもその真摯さが汲み取れた。
無駄話ではあるまいと頷くが、一応念を押しておく。
「話は聞きますが、それを方々に伝えるかどうかはお約束できません」
「……はい」
一度ぐっと唇を引き締めて、松田息子殿はものすごく言いにくそうに、恥を晒す風に言葉を続けた。
要約すると、吉祥殿は愛姫との縁組をどうあっても押し通そうとしているのだそうだ。
いや、松田殿が申し出た吉祥殿のお相手は、お生まれになったばかりの妹姫のほう。何より愛姫には、将来を約束したお相手がいる。
それは公方様どころか、姫の父親である権中納言様よりも更に高貴な方で、吉祥殿程度では覆しようもない縁組だ。
にもかかわらず、吉祥殿は兄公方様に直接その事を願い出た。公方様は公方様で、すぐに却下することも、弟を叱責することもできなかった。
公方様にしてみれば、どう答えればいいかもわからなかったのだろう。そもそも、愛姫の婚約者が誰かも知らなかったのかもしれない。
だが吉祥殿は、言い渋る兄の姿に、己の権威が増すのを阻害しようとしてるのだと邪推した。
その後松田殿は、屋敷に戻った吉祥殿に苦言を呈し、無残にも切り付けられたので、その先の事情は分からないと言う。
だが、御所に火の手が上がり、侍所の役人たちがかき集められ、一条邸に押しかけてきた理由ははっきりしている。
火事に不安を感じているであろう愛姫のご無事を確かめ、吉祥殿の手でお守りすること。
なんでも、無頼の輩が屋敷に侵入し、姫を攫おうとしたというではないか! けしからん! ……という、なんとも頭が悪そうなマッチポンプだ。
ああ、だからあれだけ張り切った、派手な装束で来ていたのか。
「つまり、吉祥様の手の者が一条邸に襲撃を?」
「わかりません。確認の取りようもありません。ですが、方々がご無事でよかった」
「万が一があれば、公方様の進退にも関わりますよ」
「……はい」
襲撃させたという確実な証拠がなければ、これ以上追及することはできない。
だが、確実に公家と将軍家との関係は悪化する。
「気になることがいくつか」
勝千代はちらりと中門廊の方向を見てから、早口に言った。
騒ぐ声が一層大きく、鬨の声のような怒声に変わったのだ。
「……はい」
「吉祥様単独では、これだけの役人をかき集めることは難しいはずです」
「……それは、そそのかした者がいると言う事ですか?」
「いるでしょうね」
勝千代の断言に、九郎殿はひゅっと音をたてて息を飲んだ。
一、二秒して慌ててかぶりを振り、半笑いの表情で否定しようとする。
「いやですが、これは単なる竹王丸君の」
「恋心云々の話ではなく、実際に百人からの実働部隊を動かしている。それが、あの御方に可能ですか? しかもあまり質がいいとはいえない。無頼の輩とそう変わらぬ品性に欠ける者どもです」
馬で一条邸の正門に乗り付けるなど、公方様でさえ控えるであろう非礼だ。
勝千代の目には、あえてそれを行っているようにしか見えなかった。
これが子供の恋心か?
いや、将軍家に大きな失点をつけようとしている者がいるとしか思えない。
勝千代は一礼し、話を切り上げる事を言外に告げた。
「……お待ちください!」
腰を浮かせた福島主従に、九郎殿が焦った口調で追いすがってくる。
「どうか、足利将軍家の御為にも竹王丸君を」
父を再起不能の恐れがあるほどの目に遭わされ、それに対する怒りや不服が抑えきれないほどだとしても、代々忠義を尽くしてきたという思い入れはあるらしい。
「九郎殿」
何とか救ってくれと語っているその目に向って、勝千代は重い口を開く。
「それは『どちらの』将軍家ですか」
公方様か、吉祥殿か……あるいは、両者を陥れようとしている何者か。
その何者かも足利一族である可能性は大いにある。
いやむしろ、勝千代の中で、そうとしか考えられなくなっていた。




