54-4 駿府 今川館 北殿2
勝千代は厄介なふたりから義宗殿を引き離した。
その後で話を聞こうと手筈を整えていたのに、これはどういうことか。
目の前には青ざめた顔の桃源院様。その手に握られているのは抜き身の小刀。
「伯母上、あまり動かれてはお身体に障りますよ」
やけに耳障りな長綱殿の声と、即座に勝千代を守る体制に入った護衛たちと。
勝千代は小柄な子供なので、前がふさがれては何も見えなくなる。
「おのれ、上総介殿を!」
震えるその声に、首を傾げる。
そういえば、御嫡男上総介様の無事を確認していなかった。確かに、義宗殿で今川家を乗っ取るつもりでいるのなら、上総介様の存在は邪魔だ。まさか……
「武功を望んでおられるようなので、曳馬に行かれてみてはと言うただけよ」
伊勢殿の、あまりにも無機質な返答に、桃源院様が慄くような声を上げた。
「戦はそこの鬼子にやらせればよい! あの子は今川家の嫡男ぞ! たった十の供回りで前線に追い出すなどっ」
「追い出すなど人聞きが悪い。子供を谷底に落とすのが今川の家風なのだろう? 蹴落とされた場所から這い上がれぬようではそれまでのこと」
「そのような!」
桃源院様が改めて切っ先を伊勢殿の方向に向けるのを見て、勝千代は急いで小刀を取り上げるよう指示した。
だがそれより早く、長綱殿が足を踏み出していた。
女性の細腕、しかもまだ怪我から本復もしていない状態での攻撃など、子供でもよけることができるはず。
それなのに、長綱殿はわざとその刃を受けるように両手を広げた。
何を考えているのか、即座に察した。桃源院様に刺された、という状況に持って行こうとしているのだ。
首を刎ねられても仕方がない状況下で、細腕で傷をつけられたからといって問題が発生するはずもないのに。
勝千代側の兵にそれを止められて、桃源院様は力なくその場で崩れ落ちた。
残念そうな顔の長綱殿を別室に連れて行くようにと命じる。伊勢殿もだ。
もはやこの二人はここで始末してしまう方がいい気がした。
まさか自身がそんな結論に至るとは思ってもいなかったが、これ以上彼らと話をするのは苦痛で、生かしておけば絶対に良からぬたくらみをするという確信もあった。
情報を引き出す利点より、そちらのほうのマイナスの方がどう考えても大きい。
「我らを殺したとて、今川は滅びるだけよ」
愉悦すら感じさせる声色でそう言った伊勢殿は、二人の兵に両腕を拘束されている状態だ。
ここまできてなお余裕のある素振りを不審に思うが、それを問いただすより先に、朝比奈殿の大ぶりな蹴りが繰り出された。
「なにをする!」
腹を庇う仕草は、人間の本能的な行動だ。
だがしかし、素人目にもそこにある「何か」を守っているように見えた。
「そこか」
勝千代の声に、何故かその場が固まった。
皆がこちらを見て、次いで、その指さす方向……伊勢殿の懐に目を向ける。
勝千代が近づくと、露骨に伊勢殿が警戒を見せた。
両腕を掴んでいる者たちが手に力を籠め、動けなくする。
「無礼者っ!」
勝千代より先に伊勢殿の懐を改めたのは谷だ。谷は無遠慮に真横から懐に手を突っ込み、丁寧さのかけらもない仕草で一通の書簡を取り出した。
見るからに高級紙。分厚さのある紙質だ。
「触れるな!」
ああ、ようやくその表情から余裕が消えてきたな。
つまりはこれこそが、奥平が言っていた「持ち出した重要物」なのだろう。
確かに、他所の家のどこかに隠すよりは、肌身離さず持ち歩く方が安全だと言えなくもない。
奪ったその書簡に目を落とした谷が、彼らしくもなくぎょっとした。一瞬だが手を離そうとすらした。
「……勝千代様」
こちらを見た目が困惑している。
「穢れた手で触れたな、下郎。今すぐ腹を切って詫びよ」
谷が若干でも怯えた様子を見せるのは初めてだった。
まさか呪物ではあるまいな。
何事かと近づいた勝千代は、同じく朝比奈殿でさえひるむのを見た。
封書に描かれた紋章は菊。本気で宣下の書類を持ち出したのか?
急に、伊勢殿が高らかに笑った。鬼気迫る哄笑だった。
「おのれらにそれに触れる資格があるものか。跪け、叩頭せよ。恐れ多くも御宸翰ぞ!」
伊勢殿の腕を掴んでいたのは、渋沢家の者だ。その言葉は、生粋の武人である彼らをして、怯ませるものだった。
思わず手が緩んだのだろう、伊勢殿が拘束を振りほどき封書を取り戻そうとする。
だが谷は、どこまで行っても谷だった。
理性より先に本能の動きでひらりとかわし……ついでにその膝裏に蹴りを入れたのを見ていたぞ。
尊大な男が膝を折り、不自然に手を伸ばした姿勢で倒れる。
よくやった谷。だが、皇家の御印が刻まれた書簡を人差し指と親指でつまんで差し出すのはどうなんだ。汚物じゃないんだから。
勝千代は問題の書簡を両手で受け取った。
伊勢殿が先ほど口にした宸翰とは、要するに帝の直筆の書だということだ。
足元で伊勢殿が「返せ!」と声を上げているが無視だ。
書簡を奉じ、軽く一礼してから包みを開く。御大層な包みは高級紙で重厚感があったが、中の紙は安物ではないにせよ薄く軽かった。いやこの時代の紙は薄ければ薄いほど高級なのか?
つい値段を考えてしまうあたり、帝に対する敬意にかけているのかもしれない。
中の紙は非常に手触りが良く、明らかに高級なもので、限りなく白に近い紙には上品な文字が連なっていた。
違和感は、紙を開いた瞬間、読む前からあった。
違う。帝の筆跡を知らない者であれば騙されたかもしれないが、勝千代にははっきりとそれが帝の手ではないとわかった。
いや、代筆ということはもちろんあり得る。だが書いてある文面的に、非常に疑わしいと言わざるを得ない。
「返せ小童。それはそのほうのような子供が玩具にしてよいものではない」
強い口調で伊勢殿が言う。床に転がってもなお、その双眸は炯々と光っている。
それほど長くない文面を隅々まで目で追ってから、勝千代はあっさり吐き捨てた。
「偽書だな」
「なにを」
「恐れ多くも御宸翰を偽造するとは」
「童子になにがわかる!」
勝千代は上半身を起こした伊勢殿を冷ややかに見下ろした。
「こんなものを拠り所に、三万もの兵を今川へ誘導したのか」
更には、前線に上総介殿を送り出したと言っていた。
御台様にはおそらく、戦にはならないと言い含めてのことだろう。
「是を以て我が言と為し、常に礼を忘ることなく従うべし」
この者の言葉を我が言葉と思い、常に礼を忘れず従うように。という意味だが、こんなものが拠り所になるはずはない。どうみてもただの私信じゃないか。
「こんな書き付け一枚で、大それたことを考えたものだ」
勝千代は吐き捨て、緊張した表情で控える者に「御台様をお連れするように」と命じた。




