54-1 駿府 今川館 大広間1
抵抗らしい抵抗はなかった。
身構え警戒していた館内の者たちも、こちらが無体な真似をしようとしているわけではないと察すると、その場で武器を置く。
勝千代が歩を進めるたびに、抗おうとするのではなく、粛々とその場に膝を折り頭を下げる者が相次ぐ。
異様な光景だった。
普段は殿中に上がることを許されない下級武士までもが、土足のまままっすぐ本殿を進む。
見慣れた大広間の近くまで来たところで、その前を塞いでいた武官たちが不安そうな表情で顔を見合わせ、さしたる抵抗をすることなく刀を床に置いた。
その奥には、閉じ込められた文官たちがいた。
広間の全面の襖が開け放たれると、ほっと安堵の空気が流れる。
「若君」
文官たちは口々にそう言いながら、その場で低く頭を垂れた。
「何があったか言える者はいるか」
勝千代が問うと、末席の方から甲高い声が上がった。
「どうかすぐに河東から兵をお戻しください!」
今川館にいる兵はせいぜい百。文官武官の全員が敵対したとしても三百人程度だ。
対する館を囲む兵は二千。これでも足りないというのか?
いや、閉じ込められていた彼らには状況が把握できていないのかもしれない。
「……その者を前へ」
勝千代がそう言うと、足をもつれさせながらひとりの下級文官が歩み出てきた。
見覚えがある顔だ。先だって勝千代に注進してきた者たちのひとりだ。
縋るような目で見上げられ、頷き返すと、男は必死の形相で両手を前に付いた。
「申し上げます!」
文官にしてはよく通る声だ。
「細川の軍勢が攻めて参ります!」
決して油断していたわけではない。十分に警戒していたし、身構えてもいた。
だが、その言葉がもたらしたインパクトは、おそらく大勢の心臓を締め上げた。
「……細川? どちらの細川家だ?」
あるいは両方?
京での大軍を思い出し、ぞっと背筋が凍る。
あれは直接かかわりがないから見ていられたのだ。兵士の波が濁流のようだった。あんなものに押し寄せられたら、暴れ川の水害のごとく、成すすべなく潰されてしまうのではないか。
いや、今川の全勢力をかき集めることができれば、対抗することはできるだろう。だがそれは……
そこまで考えたところで、はっと我に返った。
いや、最悪の事態を考えるのはまだ早い。
「細川家が何故攻め込むと? 義宗さまの件か?」
「なんでも、将軍家を名乗るために必須の書き付けを、御所より勝手に持ち出してきたとか」
書き付け? 継承に関する何らかの誓書のようなものがあるのだろうか。
あるいはすでに帝から降りた宣下の詔を、勝手に持ち出したのかもしれない。
たった一度だけ会ったことがある伊勢殿の顔を思い浮かべ、油断ならない男だと感じたことを思い出す。
幕府政所執事の職にあれば、そういう重要書類に触れる機会は十二分にあっただろう。
勝千代は長く息を吐いた。
なるほど、ここに長綱殿がいる理由がはっきりした。
北条がこの件にまきこまれないように、伊勢殿を今川に留め置きたいのだ。
あるいは、今川対細川の戦になれば、今更伊豆に色気を出している場合ではないと兵を引くことも当て込んでいるだろう。
「……攻め込んでくるとすればどこからだ」
候補は三つ。
三河、信濃、甲斐。
おそらく甲斐は遠回りになりすぎるし、信濃を大軍が通り抜けるにはあの険しく細い山道は厳しいだろう。
「三河か」
「曳馬ですな」
勝千代と同じ思考回路をたどったらしい朝比奈殿が、難しい顔で言った。
曳馬……曳馬か。
他ならぬ興津が預かる城だ。
……まさか病身の御屋形様をお連れして、最前線となるかもしれない曳馬城に向かったということはないよな?
落ち着け、落ち着け。
勝千代は空回りしそうになる思考を何とか引き留めた。
今はそんな先を考える前に、やるべきことがあるはずだ。
北殿のある方角に顔を向け、きゅっと決意を込めて唇を引き締める。
「……伊勢殿が動かない理由は、代わりに今川が細川軍に対峙してくれると思うているからか」
勝千代ははっきりとした口調でそう断定した。
「代理で戦をせよというのか?」
「お待ちください、本当に細川軍が攻め込んでくるのか、確かめる必要があります」
朝比奈殿の意見は慎重で、渋沢らの意見は強硬だった。
だが共通しているのは、向かっている兵の数およびいつ頃に到達するのか調べる必要があるということだ。
「失礼いたします」
不意に段蔵の声がした。
こんな特大級の爆弾を持ち込んだ伊勢殿らに、ぐつぐつと怒りを募らせていた勝千代は、段蔵が差し出した一通の書簡に顔を顰めた。
受け取るまでもなく、表面にでかでかと太い字で「親書」と書かれているのが見て取れる。
とりあえず受け取って、その書簡をひっくり返したところに差出人の名前があった。
「……松平?」
脳裏に浮かんだのは、京で出会った祖父と孫の二人組だ。
あまりにもタイムリーな三河からの書簡に、どこぞの策略かと疑うことしばらく。
睨んでいても解決しないので、若干乱暴に封を開け、中の紙を広げた。
「……」
無言のまま段蔵に視線を返した勝千代に、皆が不安そうな顔を向けてくる。
「勝千代殿?」
朝比奈殿の問いかけに、ふうと息を吐いてから、手で持っていた部分がくしゃりとよれた書面を広げたまま渡す。
朝比奈殿は丁寧に頭を下げてからそれを受け取って、一瞥した。
「三万」
ややあってこぼれたそのひと言に、広間の空気がざわと揺れた。
細川軍は、総兵力三万。両細川家だけではなく、周辺諸国を巻き込んでの大行進になっているそうだ。
三万など、今川家だけで何とかできる数ではない。たとえ伊豆から兵を引き上げさせ、遠江駿河の隅々からかき集めたとしても無理だ。
あの仙人じみた松平の爺様によると、幕府への大逆者を討ちに行くと大義名分を掲げ、道すがら兵と兵糧を集めてそれだけの数に膨れ上がったのだそうだ。
かくいう松平家も、参加しなければ幕府への叛意ありとみなされるということで、飾りだけだが末端に加わるとあった。
とんでもないことだ。
「井伊殿に知らせを送りましょう。伊豆にいる駿河衆も至急呼び寄せ……」
「いいえ」
朝比奈殿ですら焦る気配を見せる中、勝千代は静かに首を振った。
「何の義理があって、義宗殿の為に今川の兵が命を張らねばならないのですか?」
「いや、しかし」
だったらどうするのだと、誰もが勝千代を見ている。
「義宗殿は次期将軍位争いに負けたのでしょう。次の将軍は細川家が擁するどちらかの御方だ。我らが尽くすべきはその御方であり、義宗殿ではない」
「お気持ちはわかりますが、攻め込んで来る軍勢に対し、何もせぬと言う訳には参りません」
そのような弱腰は、武家の面子に関わると言いたいのだ。
勝千代は朝比奈殿に強い視線を向けた。
「何と言われようが結構。弱腰だろうが何だろうが言えばよい」
「勝千代殿」
「お分かりになりませんか、それこそ伊勢殿の、ついでを言えば長綱殿の思うつぼではないですか」
誰かが「あっ」と声を上げた。
瞬時に皆で共有した認識は、おそらく正鵠を射ている。
国境を越え攻め込もうとする軍勢は防がなければならない。
国として当たり前の行動をとっただけで、おそらく今川は義宗殿の後ろ盾に立ったということにさせられてしまうだろう。
「取り急ぎ、北殿にいる伊勢殿と義宗殿を捕縛しましょう。もちろん長綱殿もです」
勝千代は気持ちを落ち着けようと深呼吸した。
こんな歳から血圧の心配をしたくなるほど、頭に血が上っているのが分かる。
「どなたのどのような言葉にも耳を貸す必要はありません。個別に捕らえ、お互いが接触できないように隔離してください」
その命を受けて、朝比奈殿をはじめとする武装した者たちがドン! と床を鳴らした。




