53-7 駿府 今川館 正門前本陣
雨足が弱まってきた。
薄暗かった周囲が通常の日中の明るさになっていき、肌にあたる滴も柔らかく細い。
勝千代は空を見上げた。
西の空が明るいので、じきこの長雨も止むのかもしれない。
だが、すぐにまた夜が来る。できるならそれまでに片をつけたい。
「包囲は完了しました」
もはや見慣れた感がある黒い鎧兜の渋沢が、やけに普段通りの口調で言った。
改めてまじまじとその顔を見上げる。
相変わらず面積の多い頬あてをしていて、容貌は見てとれない。
だが兜と頬あての間からのぞく目がやけに強い光を放っていて、この男もまた熱に浮かされたような衝動で動いているのだとわかった。
「……駿河衆の動きはどうだ」
勝千代麾下の兵たちは遠江衆がメインだが、駿河衆もいくらか混じっている。
久野殿らによく目を配るよう頼んであるが、彼らについては駿府暮らしが長いこの男の方が詳しい。
一瞬過った不快そうな表情に、良好な仲とはいえないようだと察したが、そんな事は今はどうでもいい。
百対二千という勝負にもならない戦いにせよ、味方に不確定要素を含んだままというのは何とも居心地が悪いのだ。
「腰が据わっておりません」
渋沢はそう言って、肩をすくめた。
「それほど嫌なら里へ戻れと言うてやりたくなります」
いやそれは。
一応は彼らも武士だ。これから戦というときに、「帰れ」などと面と向かって言えば揉め事になる。
「些事はお気になさらず」
傍らに立つ朝比奈殿が、こちらも普段通りの淡々とした口調で言った。
「立ち位置に迷うようなら、いっそおらぬ方が良い」
「そのおらぬというのが、処罰するという意味なら却下です。やはり最後尾に回したほうがいいでしょうか」
勝千代の迷いに、真顔で首を振ったのは藤次郎だ。
「いっそ先鋒でよいのでは? 尻をつついてやれば嫌でも動きます」
いくらなんでもそれは言い過ぎ……皆も頷くなよ!
誰もが普段通りの平静さを装っていた。
だがしかし、その根底にある何かが、些細な言動に見え隠れする。
そう、攻め込もうとしているのは今川館。彼らが主君と仰ぐ御屋形様の主城だ。
決して謀反ではないと胸を張って言えるが、尋常な覚悟では刃を向けることなどできはしない。
今なお館内にいるのは、御屋形様の御正室と御母上、更には御嫡男を含むお子ら。むろん彼、彼女らと敵対したいわけではない。……ただ。
誰も口にしないことがある。
間違いなくそこに、御屋形様を亡き者にし、今川家の全権力を手中にしようとした者がいるのだ。
このタイミングで二千の兵がいる状況は、彼らにとって間違いなく避けたかったことのはずだ。
それを厭うたから、譜代の重臣を含む今川のほぼ全軍を河東に集めた。更には、邪魔をしそうな勝千代を河東で殺そうとした。
二千の軍がこの場所にいない可能性は大いにあった。
不運が重なれば、難所に行く手を遮られ、清水の湊で足踏みしていただろう。
そうやって日数を稼がれている間に、御屋形様は所在不明。今川館には将軍候補を抱えた伊勢殿が居座っている。
敵にとっては邪魔どころか致命的となる兵が帰還してきたわけだが、この状況で、真実間に合ったのかわからない。
だがこれより一刻も間をおいてはならないと強い確信がある。
本陣は今川館の真ん前に敷いた。
もとより今川館は平城……というよりも、平地に建てられた寝殿造りの公家館だ。防御に関しては紙のようなものなので、それを補うために至近距離に詰め城がある。
だが今回のような状況は全く想定されておらず、詰め城にもせいぜい兵は百。攻め手が目と鼻の先どころか、門の真ん前に本陣を置いても抵抗できないという体たらく。
「今後は要検討ですね」
穴だらけの備えにため息をつくと、朝比奈殿が小さく首を振った。
「敵襲は考えられない状況でした」
「それでも備えは必要だということです」
今川館の中枢に伊勢殿や長綱殿が居座っている件は、多少の備えで何とかなるものではない気もするが。
「備えの為に興津殿を置いたではありませんか」
そうなのだ。
ここには千以上の軍勢がいた。……少なくとも伊勢殿がここに到着した頃には。
清水湊へ五百割き、つぶそうとしたのは長綱殿か。
その選別を、経験が浅い者たちばかりにしたのは興津殿か。
もう幾度目かの逡巡が頭を過る。
本当にこれが正しい行動なのか。敵が百というのは確かなことなのか。
兵の数は絶対的なものだ。百対二千の兵差では、まともに戦おうと試みる事すら自殺行為なのに、いまだ何の動きも見せないのが不気味だ。
「……では参ろうか」
「はい」
勝千代のひそかな決意に、真っ先に返答をしたのは朝比奈殿だった。
「露払いはお任せあれ」
今にも走り出しそうにうずうず足踏みしているのは渋沢だ。
いい加減この男に先駆けはやめさせたほうがいいのでは。ちらりと過ったそんな思いも、怒涛の鬨の声に言葉にならなかった。
忠告を諦め、軽く息を吐く。
決意を込めて一歩踏み出す。
不意にひんやりとした風が海の方から吹いてきた。やけに乾いた風だった。
「上がりましたな」
空を見上げた朝比奈殿が、まるで散歩の途中であるかのような口調でぽつりと言った。
雨が止んだ。
雲の切れ間から差し込んだ日差しが、どこもかしこも濡れた今川館を照らし出す。
それはさながら舞台を照らす照明のようで。
勝千代は巨大な今川館を見つめ、今度こそ、そこにいる敵の存在を強く感じた。




