52-7 興津
潮の満ち引きはおおよそ十二時間周期だ。つまり、約六時間間隔で満潮と干潮を繰り返している。
夕方に満潮を迎えた海から潮が引くのは、ほぼ真夜中。この時代で言うところの子の刻の頃。
もちろん完全に引くのを待っている間はないので、先頭が出立したのはそれより数時間前だった。
まだ潮が引き切っていないので足元が悪い。真っ暗闇の濡れた磯を、馬で行くのは無理だ。
だが勝千代が歩いていくのももっと無理。何しろ急ぎなのだ。
大人たちは徒歩で、馬も手綱を引いての行軍だが、勝千代だけが馬に乗り……いや馬の背にしっかり固定されての移動だった。
分厚い雲が空全体を覆い、星も月も見えない。真っ暗な空の下には真っ暗な海が広がっているだけで、暗すぎてほとんど何も判別がつかない。
しかも豪雨。ざばざばと降り注ぐ雨の音と同時に、時折鋭い笛の音にも似た音が混じる強風。
肌で感じる怒涛のような波の音もあいまって、深夜の真っ暗闇が異様なほど恐ろし気な異界に見えた。
これほどの人数が漆黒ともいえる暗闇の中を行けるのは、時折雷光が空を真っ白に染めるのと、あとは長い縄を相互に引きながら歩いているからだ。
身体のどこかに結び付けているわけではなく、片手で荒縄を握って歩いているだけだから、実際のところ何人か海に落ちていても不思議はない。
そんな不安に駆られるのは、この暗さのせいだというのはわかっている。
それに、心配しているのも勝千代だけのように思える。
ここは彼らにとって地元であり、つまり地の利があるのだ。
危険な箇所は周知されているのだろう、真っ暗闇を行く男たちの足取りに不安はない。
「あと四半刻ほどで抜けます。御辛抱ください」
そう言うのは、白桜丸の轡を引く逢坂喜久蔵だ。
時計があるわけではないので、自身がこれまでどれぐらい馬上で揺られていたのかわからない。あと三十分というのが長いのか短いのかもわからない。
勝千代は誰にも気づかれないようにぐっと奥歯を噛みしめた。
足場が悪いとはいえ地面を歩いている者に比べて、不安定な馬上は怖さが倍増する。
もう嫌だと言うわけにもいかず、こんなところで休憩するわけにもいかず。
勝千代はただ白桜丸に身をゆだねて、悪路にもほどがある磯道を耐えるしかなかった。
やはり半端なく尻が痛いと泣き言を漏らしそうになる寸前、ようやくこの難所を抜けたと感覚で分かった。
白桜丸の蹄から伝わる振動が変わったのだ。
これまでの、硬いものを踏む感じではなく、もっとやわらかな、砂か土を踏む感覚。
勝千代の背後から速足の男たちが我先にと白桜丸を追い抜いていき、隊列を組んでまだ狭い道を塞ぐように布陣する。
難所を抜けるためにはせいぜい二人づつの細長い列にならざるを得ず、そこを敵に突かれることを皆が警戒しているのだ。
敵の襲撃に備えながら、さらに進むことしばらく。
高くそびえたっていた山が緩やかに低くなっていく。
水と潮と泥臭い自然の臭いに交じって……木が燃え煤けた臭いがする。
誰も口を開かなかった。
時折過る雷光が、フラッシュのようにコマ送りで周囲の情景を映し出す。
無残な様相を示す無人の関所が、ここで起こったことのすべてを物語っていた。
燃えて煤けた臭いはするが、さっとみたところ死体は見当たらない。錆びた血の臭いもしない。いや、やけに生臭い海と土の臭いが、すべてを覆い隠しているのかもしれない。
死体はなくとも、関所が里見衆の襲撃を受けたことは明白だった。この様子だと、興津の町の様子も推して知るべし。
では何故ここに里見の兵がいないのか。
おそらく彼らも、今川が兵の多くを東へ配備したと知っているはずだ。何か起こればすぐにも戻ってくるだろうと考えないわけはない。
それなのに、伏兵を潜ませておくに格好の地点であるここに、なんの仕掛けもないということがあるだろうか。
この嵐に難所を越えては来ないだろうという考えか?
いくら何でも油断し過ぎじゃないか?
後続の兵が追いつくのを待つ間、勝千代はかろうじて軒らしきものが残っていた関所の前で海を見つめていた。
吹き付ける雨と風のせいで、まともに目も開けていられない。
だが、斜めの方向に陸地があり、入江になっているその場所に、嵐を逃れ複数の関船が停泊しているのは見えた。
見える範囲に日向屋の商船はない。まさか残りの二隻も逃走に成功したということがあり得るのだろうか。
「勝千代様」
あれだけの大型船が停泊する場所が、ここからは見えないところにあるのかもしれない。
そんな事を思いながら目をこらしていると、背後から藤次郎に腕を引かれた。
指摘されてはじめて、大勢の人間が動く足音に気づいた。
ばしゃばしゃと水たまりを踏みながら、拘束された男たちがこちらに連れて来られる。何故半裸。
五人ほどの男たちは皆下半身に袴も草履も履いていない。小袖が太ももの中ほどまであって、目にしたときには一瞬、ミニスカートでも履いているのかと思った。
彼らがそんな恰好な理由は推察できた。
誰も何も言わない。怒りの表情すら浮かべていない。
戦で負けるということは、そういうことなのだ。
米やその他もろもろの貴重品は略奪される。女子供の扱いは運による。
かろうじて局所を隠している男たちは、欲望のままに行動し、本来するべきだった関所の監視を怠ったのだろう。
こんな嵐の夜だから、難所を越えてくる者などいないと思っていたのか。
「五人だけか?」
問いかけた勝千代の声に、間抜けな格好の里見衆がぎょっとした風に顔を上げた。
一度こちらを見て、さっと視線を逸らしてから、驚愕の表情で二度見してくる。
「残りは女子衆にまかせて参りました」
答えたのは、先行して索敵していた渋沢の配下のひとりだ。
それを聞いた生足むき出し男たちが、ゾッとしたように顔から血の気を引かせるのを見て、復讐の鬼と化した女性陣に「まかせ」られた連中の行く末を察した。
気が済むまで「まかせ」てよさそうだ。
むくつけき野郎どもとは明らかに違う軽い足音がした。
そちらに目を向けると、軽いと感じたのは気のせいだったと思うほど、男性と遜色ない体格の女性が近づいて来た。
具足などは身にまとっていないが、小袖に袴という男装の女だ。
年齢は四十は越えていそうだ。この時代だと孫がいてもいい頃の年増だが、髪にはまだ黒々と艶があり、毅然とした態度を含め美しい人だった。
その頬には殴られた跡があり、本来長くあるべきの髪が背中あたりで落とされている。
何があったのか、口に出して尋ねる事は出来そうにない。
「遅くなって済まぬ」
勝千代が思わずそう言うと、気丈に前を見ていたその女性がさっとこちらを向いた。
驚いたような表情をしたのは一瞬。
すぐにその場で膝をつき、地面が濡れているにもかかわらず両手を前に。深々と頭を下げる。
一瞬にしてのその態度に、彼女がそれなりの身分であり、もしかすると御屋形様のことを直接見知っているのだと察した。
「名を聞いてもよいか」
「興津久七郎が妻、里にございます」
その興津とやらは、勝千代の知っている興津だろうか。いや曳馬城主の興津の名は彦九郎だから別人か。
「そこは冷える故、立つがよい」
「申し上げます」
里は勝千代の気遣いなど聞こえなかった風に、水浸しの地面に顔を向けたまま、女性らしい落ち着いた声色で言った。
「里見の兵は千三百、海が時化になる前に後詰についていた関船も清水に入港しております。蔵の米を運び出すための人手が必要だと、関の監視のために残っていた三百を引き上げさせました。二刻ほど前のことです」
勝千代はまじまじと里を見下ろした。
彼女が何を置いても真っ先に伝えたかった事。それは自らの不運ではなく、救助の要請でもなく。今川の兵糧がいまだ完全に奪われたわけではないという、貴重な情報だった。




