52-2 駿東 興国寺1
興国寺城の山裾にある町は、ガランとしていて人の気配がなかった。
本陣を長久保へ移す前に、この一帯が戦場になる可能性があると通達していたからだ。
いざという時には町から離れる許しを出していたし、家財をまとめる十分な時間もあったから、移動できる者はすでに避難したのだろう。
ようやくたどり着いた無人の町の中心通りを疾走し、大きく開かれた大手門から駆け込む。
白桜丸はその俊足で他の馬を引き離し、一番乗りで門のゴールを切ってもすぐには止まれず、喜久蔵が手綱を引いてもまだまだ走ろうとしていた。
ざわざわと大きな喧噪が耳に届いた。
いつまでも慣れない眩暈に目を閉ざしていたので、突如耳朶を埋めつくした、都会の人混みのような騒がしさに、いったい何が起こっているのかすぐにはわからなかった。
―――若君! 若君! わかぎみ‼
ざわざわ、いやごうごうと、鼓膜の平常を失うほどの喧噪に取り囲まれた。
白桜丸に全身を預けていたが、さすがに何事と身体を起こし、それを喜久蔵がさりげなくまっすぐに支える。
眩暈。吐き気。襲い掛かってくる激しい混乱。
食道を逆流してきた胃液をなんとか抑え、焦点が定まらない目を擦ろうとして……誰かが言った「今川の麒麟児」という言葉に、すっと意識から靄が引いた。
何だ、今のはどういう意味だ。
麒麟と呼ばれたことはあるが、その前に「今川」とつけられたことはない。
それがどんなに不穏な意味を持つか、わかっているのか?
「勝千代様!」
興国寺城での留守を任せた男が、大声で勝千代を呼びながら駆け寄ってくる。
似合わない小具足姿の男を通すべく、その場の人混みが左右に割れた。
そこで初めて、集まっているのが城内に避難してきた町の人々なのだとわかった。
「御無事で何よりにございます! お味方が後方から北条を突き、情勢は今川有利にございますぞ!」
なんでも愛鷹山の張り出した尾根のふもとあたりで激戦が繰り広げられているらしく、山の上の方から両軍の動きが非常によく見えるのだという。
この周辺一帯には背が高い樹木はなく、駿河湾までは低木と草原が広がるなだらかな平地なので、視野が開けて見晴らしがいいのだ。
「いやあ、お見事な引きでございました! 見ている方がこう、興奮いたしましたほどで‼」
勝千代は、今川館では下級文官を務めていた男の、身振り手振りを加えた饒舌な口調に呆れた。
もちろん、情報操作なのだとすぐに察した。
どういう意図かと馬上から男を見下ろし、とりあえずは頷き返すにとどめる。
過剰なほどの人数で押込められた町人のパニックを抑えるためだろうか。
あるいは、これから来るかもしれない実戦への不安を和らげるためだろうか。
勝千代が口を挟むのもなんだと感じ、若干引きつっているであろう笑みを返すと、再び城内がどっと沸いた。
―――若君! 若君! わかぎみ‼
長年今川館にいたのなら、そういう工作はお手の物なのだろう。
だとしても、やりすぎじゃないか?
勝千代ら騎馬隊が到着後、遅れて一時間ほどしてから、後続の歩兵たちが到着し始めた。
駿河者も遠江者も判別できないほどごちゃまぜで、隊列など無視して、ただ体力が続く限り命がけのマラソンだ。
装備は付けたまま、武器も所持したままで十キロ近く走らせたので、かなり体力的につらかったと思う。
しかも本日の移動はここで終わりではない。続いて西に向かわねばならず、その為にもしっかりとした休息が必要だった。
もちろんエネルギーと水分の補給も。
城内は避難してきた者たちでいっぱいだったので、勝千代が連れてきた千の歩兵はやむなく城の周辺で待機した。
興国寺城にはあらかじめ伝達しておいたので、握り飯と白湯の用意はしてある。
勝千代は本丸曲輪での休息を勧められたが、青息吐息の歩兵たちのことが気になって、同じように城の土塁の外側で休むことにした。
皆がうまそうに握り飯を食い、明るい表情で話をしている。
勝ち戦だということもあるし、今回の撤退で追いかけてくる北条軍を撒き切ったのが本当に嬉しかったようだ。
予想していた通り、追っ手は左馬之助殿だった。
大声で勝千代の名を叫んでいたそうだが、本人に届いていないのだから返答しようもない。
幸いにも、最後尾に食いつかれることはなかった。
そうなる前に、井伊軍が北条の背後を突いたからだ。
そのタイミングがまた絶妙だったようで……興奮気味に話をしている兵たちの楽しそうな声が勝千代のもとにまで聞こえてくる。
「白桜丸が素晴らしい健脚でしたね!」
こちらも高揚した口調で言うのは、勝千代とその護衛、側付きたちに握り飯を運んできた三浦平助だ。
「先行してくださったので、後続の馬も速度を保てました」
「だがこれより先は長旅よ。馬の調子をよく見てやらねば……」
側付きたちの会話をぼんやりと聞き、まだ吐き気の残る胸元をそっと撫でる。
食べなければ体力が持たないとわかっているが、食欲は欠片もない。
そもそも出立前に食ったばかりだろうと内心思いつつ、勝千代はチビチビと酔い覚ましの薬湯を飲んだ。
「勝千代様もどうぞ」
藤次郎が笹の葉に乗った握り飯を運んでくるが、軽く首を振る。
「食えば吐く」
自信をもってそう言い切ると、困ったような顔をされた。
「今日の行程が済むまでは腹には何も入れぬ方が良い」
そもそも大人と同じ胃袋だと思ってもらっては困る。まだ未消化の朝の握り飯がどっしり居座っているから、今はいらない。
「大きくなれませんよ」
余計なお世話だよ、谷。
勝千代がようやく薬湯を飲み干し、込み上げてくる青臭いゲップを堪えていると、湯飲みを回収した与平に段蔵の帰還を告げられた。
多少身なりに障りが出たので着替えてから報告に来るそうだ。
……怪我でもしたんじゃないだろうな。
勝千代は立ちあがり、周囲には厠へ行くと告げた。
もちろんひとりで移動することはない。勝千代が動くということは、この場でくつろいでいる者たちがごっそり動くということだ。
まだ残っていた握り飯が、冗談か魔法のようにあっという間に消える。
どうやらこいつらは尻だけじゃなく胃袋も鋼鉄製らしい。
厠で用を済ませ、井戸端で手を洗おうと歩いていると、柄杓を手にした段蔵が井戸の傍らで待っていた。
その全身をざっと目で観察してみるが、ごく普通の鎧兜、つまりは中程度の武士の格好で、特に目立った怪我をしている様子はない。
「……北条は不利になるとわかっていて、何故追ってきた?」
手に水をかけてもらいながらの第一声はその問いだった。
段蔵がちらりと勝千代の顔を見て、再び柄杓で水をすくう。
「引き留めたかったように見えました」
やはりそうか、とため息がこぼれる。
長久保城から勝千代らが退避すると察知して、北条軍はほぼためらうことなくこちらに突進してきた。
そんな事をすれば、後方から井伊あるいは伊豆方面の駿河衆らが攻めたててくるなどわかりきったことだ。
案の定北条は背後を突かれたが、そうなる事はあらかじめ予期していたのだろう。巧みに回避し、回り込んで井伊軍と対峙したそうだが……おそらくはそうなる前に、勝千代に追いつきたかったのだと思う。
もとより、井伊殿が誘う北側に向かうことはないだろうと踏んでいた。
追うなら西、あるいは南方面だが、それにより退き口をがら空きにはしないだろう。
つまり北条軍は二分あるいはそれ以上に分ける必要がある。
兵を分ければ寡兵になり、守りたい退き口をも奪われかねない。
必然的に兵を分けるのではなく、撤退するのがもっとも正しい道だと判断するはずなのだが……
やはり、駿府で何かが起ころうとしている。
そう思ってしまうのは、直感ではなく、もはや確信だった。
勝千代が率いる千の兵に戻ってもらっては困るのだろう。……何故だ?
駿府を守る興津の兵は千足らず。今の北条にそれをどうにかする剰余兵はない。里見がわざわざ今川の本拠地に攻撃を仕掛けてくるとも思えない。
まさか甲斐の武田と手を組んだ? いやだとしても、甲斐は今すぐはまとまった数を用意するのは難しいはず。その上、駿府に兵を送るには、朝比奈軍を何とかしなくてはならない。
勝千代の知る限り、今現在、どの方面からも駿府に対して大きな軍事行動はできないはずなのだ。
何か見落としがあるのか?
たとえば……謀反?
不意に、脳裏に興津の武骨な顔が浮かんだ。まさかな。




