51-4 駿東 長久保城 前夜
目をこらすと、遠くでいくつもの篝火の炎が見える。北条の本陣だ。
耳を澄ませても聞こえてくるのは味方が動く音だけで、もちろん何キロも先の話声などわかるはずもない。
だがきっと、北条軍は今後どうするかの軍議を夜通し行っているはずだ。
あるいは撤退の準備を? 明日の作戦に備えて皆を休ませているのかもしれない。
長久保城本丸から見る夜の景色は、半日前の惨事が嘘のように静かだった。
街灯などない時代の真っ暗な草原に、遠くで灯る篝火。山の裾野にポツポツと連なる光が、鬼火のようにも祭りの提灯のようにも見えた。
「そろそろお休みになってください」
いつの間にか真後ろにいたのは弥太郎だ。
一瞬だけ、かつての日常に戻って来た気がして、長く息を吐いた。
気がかりなことが多くて眠れないのだ。……そんな弱音は口にできない。
「逢坂は」
「熱は高いです。熱があるということは、生きているということです」
だがその熱が逢坂の命を焼いている。
毒は直接口から飲んだわけではない。嚥下したのならまず胃洗浄で吐かせるのだろうが、直接体内に注がれた毒は、尿や汗で出し切るしかない。
「生かせ。生きていてくれればよい」
「最善を尽くします」
勝千代は頭を下げた弥太郎の方は見ず、じっと北条本陣の明かりを見据えた。
逢坂は年齢の割には頑健だが、高齢なことには変わりない。厳しい戦いなのは言われずともわかる。
こういうことは戦の常、暗殺もその策の内なのだとわかっていても、己の身代わりに近しい者が苦しむ様を見ていると、どうにも納得できない感情、許しがたいと思う気持ちが拭えない。
「……父上はどうされている」
気がかりは多いが、その筆頭は間違いなく信濃で暴れている父のことだった。
片目を失ったということは、武人として大きなハンデになるだろう。だがそれ以上に、外科的医療技術が未発達なこの時代で、怪我の予後はどうなのかと心配していた。
「お元気です」
返ってくる答えに身構えていたのだが、弥太郎の返答は酷くあっさりしたものだった。
北条本陣を見据えていた目を、思わず傍らの弥太郎に向ける。
勝千代は半分、いや三分の二の確率で、何か問題があると言われるのではないかと覚悟をしていた。
弥太郎たちが合流して、真っ先にそれを尋ねたかったのだが、状況が状況だけに後回しになってしまった。聞きたくないという思いも、多少はあったことは認める。
だが、何も言ってこないのは無事の知らせだったのだ。父も源九郎叔父も問題なく「お元気」だとのことだ。
長い安堵の息がこぼれる。
「そうか、お元気か」
それならそうで、信濃の状況を詳しく聞きたいところだ。
いや、今はそちらに気を取られるべきではない。
「……動いたな」
篝火の位置は変わらない。雲が多い真っ暗な夜に、その光はひどく目立つ。
だが雲越しのわずかな月明かりが大地の起伏をある程度浮き彫りにしていて、暗がりに慣れた目がひそかな北条軍の動きを捕えていた。
勝千代の目にわかるということは、相当に大きな動きだ。
じき段蔵からの詳しい報告があるだろう。
「今のうちにお休みください」
再びのくだりに、「この状況下で眠れるわけなかろう」と言い返そうとして、大軍が陣を動かすにはかなりの時間が掛かるということを思い出した。
ここに逢坂老がいたら、「休めるときに休むのが武士の務め」などと言うのだろう。
「……わかった」
勝千代はもう一度、動きを見せた北条軍の軍影に目をこらしてから、踵を返した。
休むと言っても、精神が過敏になっているのですぐに眠れるわけもない。
そんなときの弥太郎の薬湯だ。
一か月のブランクを感じさせないタイミングの良さで差し出されたのは、いつもの湯飲み。立ち上る青臭さと、どろりとした絶妙にマズそうな色具合。だがこれを飲めば良く眠れること、体調も整うのだと経験則で知っている。
「そういえば、八雲はどうしている」
苦みのある薬湯を一気に喉に流し込んでから、喋ると余計に苦い味が咥内に戻ってくるのに顔を顰めた。
「……八雲が何か?」
「少ない手勢でよくやってくれた。負傷したようだが具合はどうか」
「影供に戻っております」
いや怪我人だぞ。休ませた方がいいんじゃないか。
ブラック企業の上司さながら、当たり前のようにそう答えた弥太郎に、勝千代はちょっと物言いたくなって唇を開いた。
だが結局は忍びの頭数を揃えることができない福島家の問題なのだ。
頭領小太郎が不在でも十分な忍びの数を確保している北条家との差が身につまされ、申し訳なさに口を閉ざす。
何の差だ。資本の差か? 兵糧で使う分の資金を、配下への扶持にあてているのか?
「無理はさせるな」
「お気遣いありがとうございます」
「弥太郎もな」
信濃から駆け付けてくれたのはありがたいが、相当に急いだはず。
父も二木も遠慮なく忍びを使い倒しただろうし、こちらに来てすぐ大量の怪我人の面倒をみた弥太郎も、情報収集に出た段蔵も、もちろん彼らに従ってきた忍び衆も、身体を休める間などなかっただろう。
「無理をすれば誰でも疲弊する。疲れていては良い働きは出来ぬ」
「……はい、ありがとうございます」
勝千代は臥所に横になり、もっと幼い子供の頃のように衣を喉元まで掛けてもらいながら、ぼんやりと頷き返した。
さすがは弥太郎特製の薬湯。あれだけ尖っていた意識がゆっくりと眠りの淵へ沈んでいく。
そうだ、明日また開戦する前に、厨に申し付けてまた握り飯を作らせよう。腹が減っては戦は出来ぬ。皆にたらふく振舞って……
「握り飯を……」
勝千代は、もにょもにょと思うところを口にしようとしたが、最後まで言葉にならずに眠りに落ちた。




