51-2 駿東 長久保城 大手門前2
門前払いされたことにすら気づかず、駿河衆が意気揚々と自軍に引き上げるなか、承菊だけがその場にうずくまり動かなかった。
墨色の法衣の僧侶。しかもそれが若く美形だとくれば、つい同情したくなりそうなものだが……勝千代は美しい丸い頭を冷めた目で見下ろしてから、大手門に向けて身を翻した。
その直垂の長い袖をぱっと掴まれ、殺気立ったのは谷だ。
勝千代はある程度予期していたので、引き留められるままに足を止めた。
「……どうか。後生にございます」
懇願する声は細く、震えている。
袖を握る手にそれほどの力は籠っていないのだが、縋りつくようなその態度に鳥肌が立った。
勝千代は承菊の手を扇子で叩き落すべきか、蹴飛ばして遠ざけるべきか、谷が処理するのを黙って見ているべきかの三択で迷い、結局どれも選びきれずにため息をついた。
「いい加減その芝居はやめよ」
露骨に棘のある口調に、目を見開いたのは勝千代の周囲の者たちだ。
大勢が疑問符付きの表情でこちらを見ている。
勝千代は容赦のない仕草で袖を振り、承菊の手を払った。
すでに周囲に駿河衆はいない。承菊の身を守るべき兵のひとりもいないというのは、あらかじめそういう人選にしていたからだろう。
勝千代は駿河衆が完全に見えなくなっている事を確認してから、それでも念のために声を潜めた。
「そのほうが仕組んだのか」
小さく墨色の法衣が揺れた。それを嘲笑だと察知できた者はいるだろうか。
「まあよい。ついて参れ」
結局、長久保城に入る事を許されたのは承菊ひとり。その結果を真剣に受け取る者がいないというのがそもそもおかしい。
勝千代は承菊がついてくるか否かの確認などせず、すたすたと大手門をくぐった。
城はそれほど大きいわけではないし、手を掛けられたものでもないが、大手門だけは立派だ。立派と言っても戦国時代後期の造形美があるわけではなく、武骨で堅牢そうな造りだという意味だが。
勝千代が足早にくぐり、人員のすべてが門扉の内側に入ってから、ぎぎぎと軋む音を立てて門が閉まりはじめる。
やがて、ドシンと非常に重い音がして、完全に大手門が閉ざされた。
斜めに差し込んでいた日差しが遮られ、勝千代の全身を影が覆う。
日ごとに昼が長くなっていくのが体感できる季節だが、まだ真夏ほどではない。じきに夕日が差し、また夜が来る。
それまで承菊をここに引き留めておくつもりはなかった。
長く留めておくと、駿河衆の中に疑心が湧く可能性もあるからだ。
大手門に一番近い建物内で話をすることにした。掘っ立て小屋に近いのはわざとではない。本丸や二の丸まで行くにはそれなりに歩かなければならないので、手っ取り早く大手曲輪内にある建物を選んだだけだ。
普段はおそらく交代兵の詰め所、あるいは武器防具を一時的に置いておく部屋なのだと思う。
足を踏み入れた瞬間の臭いが、剣道部部室のアレなのだ。
いや、この時代で臭いについての云々を言うのは今更だな。
勝千代以外の誰もそれを気にした様子はなかったし、承菊など泥交じりの汚れた土間に直接座っても平気な顔だ。
勝千代はじゃりじゃりと砂が上がった感覚がある上がり框に腰を下ろし、平然と土間に座り続けている承菊に目を向けた。
そのやけに強い視線には覚えがある。そうだ、この男のこの視線。目力が強すぎる凝視がないから、大手門前での懇願を「芝居」と断じたのだ。
「……それで?」
辟易すればいいのか、怖気を振るえばいいのか。あまりにも強い視線につい腰が引けそうになる。
そんな勝千代の問いかけに、承菊はうっそりと唇に笑みを浮かべた。
「拙僧は庵原家の庶子、庶子の扱いは勝千代様もよくご存じでしょう」
庵原家の事情が聞きたいわけではない。勝千代は眉間にしわを寄せ、かぶりを振った。
「わざと駿河衆を伊豆に侵攻させたのか」
「そもそも河東は北条色が強く、そのことは常に危惧されておりました」
いざとなれば寝返るのではないか、長年続いたその疑惑が、とうとう辛抱できないまでになったのは、富士川が氾濫した際に今川領に送るべき備蓄米を、北条に送っていることが発覚したからだそうだ。
駿東の北条系の代表格といえば、葛山殿だ。北条殿の実弟を養子に迎え、いずれはその子に葛山家を継がせるという約束だった。
だがいつからか葛山家は脱北条の方針で動き始めた。おそらくは、娘だけしかいなかった葛山殿に実の息子ができたからだろう。
承菊は口角だけを持ち上げ、ぎらついていると言ってもいい強い視線で、ただひたと勝千代を見つめ続けた。
「河東の北条派閥を排除するべきだというのは、駿河衆の総意でした。がら空きの伊豆に色気を出したのは葛山殿です」
「そのほうが攻め込ませたのではないのか」
「止めはしませんでした」
承菊のしれっとした返答に、勝千代はぐっと唇を引き締めた。
こうなる事はわかっていたはずだ。何故止めなかったと聞きたいが今更だ。
この男がどういう意図で、失敗する可能性が高い伊豆侵攻に反対しなかったのか。詳しく問いただしても気分が悪くなりそうな予感がした。
「北条の動きが早うございました。あと半月あれば伊豆を切り取り、その取り分で揉めたでしょうに」
揉めたであろうことを嬉しそうに言うな。
勝千代は鳥肌の立った腕を何度か擦った。
「北条は必ず取り返しに来るぞ」
北条家にとって伊豆は特別な土地なのだ。先代が最初に国持になった場所、いうなれば本領。何としてでも奪還しようとするだろう。
……ああなるほど。承菊はそれも承知で黙っていたのか。
「それほどの恨みがあるのか」
呟いた瞬間、余計な事を言ってしまったと後悔した。
「御存知でしょうか。拙僧の母は興津家の出身です」
案の定承菊は語りに入った。
同情したくなかったし、情状酌量の余地があるとも思いたくなかったので、聞くつもりはなかったのだが。
「一度は正室として迎え入れられたのですが、すでに側室には年長の男子がおり、側室がその者を嫡子にしたいがため我が母に毒を盛りました」
いやだから、そんなドロドロした事情は聞きたくない……
「その後に生まれた拙僧は生まれながらに病弱で、長くは生きる事が出来ないだろうと早々に継嗣から外され寺に預けられました。その頃には側室が継室となっており、母は離縁されたわけではありませんが、失意のうちに他界いたしました」
淡々と語っているが、その目にあるのは憎悪だ。
だがしかし、勝千代が顔を顰めたのを見て、その色をすぐに消し去った。
この男も、同情されたいわけではないのだろう。
もしかすると、生き延びるための戦略として僧籍に入り、父が気に入るような息子を演じていたのかもしれない。
そんなことを尋ねてもどうなるものでもない。だが僧籍にはいったとはいえ、元は正室腹の子であり、この容姿に怜悧な知性。当主庵原殿にあんな風に溺愛されている承菊を、庵原の継室は面白くは思わないはずだ。
勝千代には容易に想像がつく。人間の悪意は、理不尽で始末に負えないものだ。時には誰もが顔をそむけたくなるほど残忍なことも、平気で起こり得る。
だからこそ、その先の話を聞きたくなかった。
「……気は済んだか」
承菊は莞爾と微笑み、勝千代をまっすぐに見上げた。
「誤解していただきたくないのは、父を恨んではおりません。庵原家が欲しいわけでもありません」
きっとそれは嘘だ。いや、嘘ではないかもしれないが本音ではない。
少なくとも、庵原の嫡男が伊豆で死ねばいいとは思っている。
つまりこの状況は、承菊の復讐なのだろう。
 





 
  
 