5-1 上京 一条邸 中門
「……なんだと」
勝千代は、己の声が低くかすれるのを感じていた。
まだ声変わりも遠いので、いう程の迫力はなかったが、側付きたちは込められた怒りをきちんと読み取ったようだ。
びくりと身を震わせたのは三浦弟だ。
そのほかの者たちも一斉にさっと平伏し、顔を伏せて表情を隠す。
「……まことか?」
「はい。幸いにも大事には至りませんでした。ですが女房殿のひとりが深手を負い、護衛が幾人か死にました」
「姫は」
「北の御方の元で気丈に振舞っておられるそうです」
弥太郎はそれだけ言って、飲み干された湯呑みを回収してから一礼して退室していった。
彼が聞き込んできたのは、一条家の忍び衆からの事後報告。すでにもう終わってしまった出来事だ。
昼過ぎに報告を受けた不審者というのは、勝千代を狙ったものではなく、一条家の愛姫をターゲットにしたものだったのかもしれない。
一条方の忍び衆が追い払ったと言っていたが、体制を整えて戻って来たのだろうか。
パキリ、と扇子をへし折る音が隣からした。
勝千代以上の怒りを露わにし、なお恐ろしい面相の男が隣にいた。
普段は飄々とした貴公子然とした男なのだが、その見たこともない憤怒の表情には勝千代ですら顔面から血の気が引くのを感じた。
「権中納言様は」
その朱の色がわずかに乗った唇が、震えるように動く。
「いまだ御所方面におられるかと」
そう答えたのは鶸だ。
それに対する東雲の返答はない。
時刻は既に夕暮れ。
太陽は西の際に傾いていて、空の半分が燃えるような茜色だ。
それは夕日のせいなのか、おさまらない火災によるものなのか。
逐一入ってくる忍びたちの報告によると、風向きのせいで被害が東側に偏りつつあり、一条邸からは火の手が遠ざかっているそうだ。
とはいえ、季節柄風は強く、いつその風向きを変えるかわからない。
雲一つない空の様子から雨を期待することもできず、あまりにも楽観視できない状況の中、やきもきして事態の収束を待っていたところだった。
襲撃の情報を詳しく知りたいところだが、一条家にも十分な護衛がいるのだから、余計なお世話だと思われかねない。
だがしかし、勝千代の危機に飛んできてくれた姫の事を思えば、居ても立ってもいられなかった。
「目的は何だと思いますか? いったいどこの誰がこのような」
しばらく茜の空を見上げ、気持ちを落ち着けてからそう問うと、同様に何とか怒りを抑えた東雲が長い息を吐いた。
「考えられるのは大きく二か所やな」
「二か所?」
「……武家か、公家か」
至極真面目にそう言う東雲をまじまじとみて、小首を傾げる。
「御嫡男の万千代様ならまだしも、姫君に武家からの刺客が? お側に居られたのでしょうか」
愛姫の婚約相手は、口に出すのもはばかりある高貴な御方なので、そのライバルからの横槍は十分にあり得る話だ。だが武家からというのは……ご側室の実家である大内家方面だろうか。
勝千代はふと、呆けたように姫を見ていた吉祥殿の事を思い出した。
……まさかな。
頭の一振りで、余計な思い付きを追い出す。
「経験から申し上げますが、この手合いは執拗ですよ」
幼い姫君が相手だ。本人への憎しみなどではなく、おそらくは利害目的による襲撃だろう。
こういう輩は、目的が達成されるまで諦めない。
迅速に送り主を突き止め、元を絶つなり話をつけるなりしなければ、いつまでも刺客を送り続けてくるだろう。
「以前にもこのような事が?」
「……いや、聞いたことはないな。権中納言様が外には伏せとったのやもしれぬ」
勝千代は再び中庭の方に顔を向け、込み上げてくる嫌な予感に胃がしくしくと痛んでくるのを感じた。
日が沈み、空には御所が燃える炎の大きさが朧に浮かび上がっている。
それはまるで、かつて見た祭りの明かりのようだった。
暗い空をぼんやりと照らす光は、もちろん町外れに並ぶ屋台や提灯の反射光などではない。
明日の朝までに火は消えるだろうか。
あの炎の下で、どれだけの人が焼け出され、どれだけの人が命を散らしているだろう。
そういえば、藤波家も、一条家も、家族の幾らかを下向させるつもりだと聞いた。
京のこの治安の悪化に不安を覚えての事だろう。
そうやって公家たちがボロボロと、歯抜けのように京を去り、皇族方だけが逃げることもできず京にとどまり続けるのだろうか。
勝千代には未来で生まれ育った知識があるから、幕末までは天皇家が変わらず京に存在し続けると知っている。
だが、御身の安全のためにも、一時的にでも御所を移されたほうがいいのではないだろうか。
いや実際、公的な記録には残っていないだけで、そういう事実があってもおかしくはない。
こんなひどい有様で、日ノ本の中心、帝がおわす「京の都」とは呼べないだろう。
もちろん、勝千代如きが言う事ではない。
ただ、状況が状況だけに、そういう話が漏れ聞こえてこない事が不思議だった。
費用の問題だろうか。
あるいは、逃げ出すような形になることを厭うてだろうか。
いや、たとえ公家衆がそうしたいと思っても、武家がそれを許さないのかもしれない。
それが最もあり得そうで、同じ武家である勝千代にとっては身につまされる事態だった。
周囲の大人たちが一斉に、一方方向に顔を向けた。
勝千代はそれでようやく、何者かが離れにやってきたのを知った。
もの凄い速足なのに、すっすと滑るように滑らかな足取り。
訓練された身のこなしと、そのかっちりとした服装から、土居侍従の孫小次郎殿だとわかる。
「失礼申し上げます」
こんな時にも至極丁寧に、まずは東雲に、次に勝千代に向けて礼を取る。
「小次郎殿、どうなさいましたか」
「勝千代殿、申し訳ないのやが、御助言頂けないでしょうか」
その祖父は西の方の訛りに、若干怪しげな京のイントネーションだが、小次郎殿はもっと自然な京訛りだった。
「……助言、ですか?」
「今表に、幕府御用と申される方々が百人からの兵を連れていらしておりまして」
ガタリ、と音をたてて東雲が脇息を倒した。




