50-11 駿東 長久保城11
この時代に無線などはない。大軍に一斉に情報伝達するのは、法螺貝であり、警鐘であり、近くに限定するのであれば陣太鼓だ。
実際のところ、広範囲に広がっている軍勢に、音だけで細かい陣形移動を指示するのはほぼ不可能なのだ。実に大雑把に、一回鳴れば前進、二回なれば撤退、あといくつかの簡単なものしか出せない。
あまりにもアバウトなので、例えば戦いに夢中になっていてよく聞き取れなかった場合などに、仲間の動きに同調して動くことはよくあるそうだ。皆が右を向いて走り出したら、同じように右へ走らねばならないという風に。
つまり、どんなに軍律を徹底していようとも、端にいる者が敵影を認めそれに反応すると、周囲もそれにつられてしまうのだ。
雑兵たちに悪意はない。皆が右へ行くから右へ向かっているだけだ。
その場を動くなという命令も、伝わらなければどうしようもない。
東側に布陣し、東門を攻めていた北条軍が陣を乱した。
最初は北端の一部が反応しただけなのだが、つられたようにその周辺の部隊が動いた。
遠くから見ていてそれとわかるほどだから、相当な混乱だったのだと思う。
勝千代は土井が興奮して指し示す方向に目をこらした。
まったくわからない。
はっきりそれとわかる砂ぼこりのようなものは見えないし、木々が林立している場所でもあるので、樹影と判別しがたいのだ。
だが、土井がそうというのならそうなのだろう。
実際に混乱が川べりの方まで伝わっているのが分かる。
この瞬間を待っていた。
藤次郎が、傍らに携えていた軍配を差し出してきた。もったいぶった恭しい仕草だ。
勝千代は黒い漆塗りの団扇……ではなく、子供の手には大きすぎる軍配を受け取り、斜め四十五度よりも上に掲げた。
迷っている間はなかった。率直なところを言うと、軍配は意外と重くて、長く持ち上げているのは難しかったのだ。
勢いよく振り下ろし、「行け」と声を張った。子供の甲高い声だったし、若干震えていたし、裏返っていたようにも思う。だがしかし。
―――うおおおおおおっ!
間を入れず響いたのは、怒声というか、咆哮というか。とにかく鼓膜が破れるんじゃないかと思うほどの爆音だった。
東門が開け放たれ、握り飯がふるまわれて元気いっぱいの今川軍が城外に突撃を掛けた。
対して、東門を破るために奮闘していた北条軍は疲労困憊気味、背後の騒ぎに気を取られていたのもあって、明らかに怯み足をすくませていた。
見ていてわかるのが、戦における兵力は大切だが、それ以上に必要なのは士気であり、勢いであり、ぶっちゃけ指揮官の肝の座りだということだ。
軍勢のすべてが、一度に敵に接するわけではない。
今はまだ軍影が見えているだけの段階なので、井伊軍が陣を整え増援という形で参戦するまでに数時間、手間取れば半日ほどはかかるだろう。
つまり現時点、東門を攻めるという戦術を取っている北条の雑兵たちには取り急ぎの変化はないはずなのだ。
だがそれを、東門の前にいる北条の雑兵が知っているはずもなく、わかるのは後方がなにやら動揺していることと、今川軍が威勢よく攻め出たということのみ。
北条軍は飛び出してきた今川兵に冷静に対処するべき状況だった。いやむしろ今を好機と全開になった東門に突撃を仕掛けてもよかった。
だがすべてがなし崩し的に今川軍に有利に働いた。
戦場における指揮官の躊躇は、それだけで全軍の趨勢を危うくする。
指示らしい指示があったのかどうかはわからない。だが今川の勢いに北条軍は浮足立ち、そのまま幾人かが敗走する気配をみせた。
こうなると、つられてその周囲にも臆する気持ちが伝染する。
―――うわあ。
勝千代の率直な感想はただそれだけだ。
感覚が麻痺していたというのはある。勝千代のいる位置からも、さらにいっそう戦死者が増えているのが見て取れる。敵味方問わずだ。
それなのに、感想はひたすら「うわあ」という、感嘆より嘆息寄りのドン引きだった。
先頭を走っているのは黒備え渋沢だ。いや現場指揮官が先陣を競ってどうする。
彼だけではない。我先にと突進していく槍兵たちの幾人かは雑兵ではなく、見覚えのある遠江国人領主、つまりは侍大将級だった。
鎧兜の渋沢らが、北条の雑兵たちの一団を蹴散らす。
無双状態に見えるが、危険極まりない行動だ。怪我でもしたらどうするのだ。
やがて川より手前が混戦状態になってきた。
そして遠からず、川に飛び込む北条兵が出てきた。
結論。井伊軍がまだ到達していない段階で、長久保城への攻め手を黄瀬川の対岸まで押し戻すことに成功した。
勝千代はいくぶんほっとして、怪我などしていなさそうな渋沢らが対岸にむけて拳を突き上げるのを見ていた。
さながら獣の咆哮のような、男たちの鬨の声が聞こえてくる。
やがて北条軍は緩やかに陣形を整え始めた。
混乱は最小限に抑え、即座に兵をまとめる動きは冷静だ。
勝千代は東方面に見えている本陣らしき陣幕の張られた場所をじっと見た。
白と青の旗がいくつもはためいている。
この頃になると、勝千代の目にも井伊軍が迫ってきているのがはっきり見てとれた。
南から駿河衆、北から井伊殿、西は長久保城の勝千代だ。
街道の三方向を押さえ、退き口の選択は箱根方面のみ。
更にこれから決戦になるのだとしても、彼らがこの退き口を手放すことはないだろう。
互いの兵数には三千ほどの差が出た。戦えない事はないが、誰の目にも今川有利、北条は分が悪い。
果たして北条軍はこのまま引いてくれるだろうか。




