50-6 駿東 長久保城6
「そろそろ」
逢坂老がそう言って、勝千代の肩に手を置いた。
若干強めに握られた肩をそっとゆすられるまで、時間の経過を感じていなかった。
過去幾度となく城攻めとは関わってきたが、実際に明るい所でその様子を目にするのははじめてだった。
「もう少し」
「約束しましたぞ」
勝千代は渋沢がいると思われる所に目をこらした。
指揮官であるあの男が実際に戦っているわけではなく、その周囲にはまだ北条兵は到達していないが、見ているだけの方にはそれでもひやりと肝が冷える近さだった。
いや、気にするべきは渋沢のことだけではない。
ボロボロと欠けていく自軍の兵たち。
同じぐらい無残に崩れ落ちていく敵の兵たち。
たやすく、ゲームのなかの光景のようにあっけなく、人が死んでいく。
目の奥が痛くなるほど、瞬きすら忘れてその命のやり取りを見つめ続けた。
果たしてこれが正しいことなのか。いまだにわからない。
己がここにいる必要が本当にあったのか。惨状を見続けなければならないのか。
決意が大きく揺らぐ。
「さあ、降りましょう」
逢坂がさらに強めに肩を揺すった。
ぐんと揺らされて、頭が振れる。とっさに目の前の壁に両手を付き、木製の狭間に片目を押し付けた。
それまでは作り立ての壁の若い木の匂いがしていた。
しかし、狭間に顔を寄せた瞬間、鼻腔に届いたのは嗅ぎなれてしまった嫌悪の臭いだ。
あの場所に渋沢が、皆がいるのだ。
脳裏に顔見知りの男たちの笑顔が過る。
「……あっ」
勝千代の頭上で、壁の上から外の様子を見ていた五郎兵衛殿が小さな声を上げた。
狭間という限定された視界の中では、その理由はわからなかった。
「左馬之助殿ですな」
勝千代は、素早く逢坂が見ている方向を確認してから、再び狭間に顔を押し付けた。
この時代では眼鏡とは無縁の生活を送ってきた。わりと目はいい方だと思う。それでも、彼らが気づいたものをすぐに見つける事が出来なかった。
長久保城は二つの川に挟まれた立地で、攻め込むにはいずれにせよその川を渡らざるを得ない。
このあたりは山の稜線の先端。こんもりとした台地になっている部分で、川はその台地を削るように低い位置を流れている。
岸の多くが天然の崖のようになっていて、橋を落としてしまえば渡ることができる場所が限られてくるから、目をこらすべき所などそう多くない。
それでも少し見つけ出すのに時間が掛かってしまった。探しているのが総大将の指物や馬印だったからだ。
いや、なにやってんのあの人。
思わず呆れてしまったのは、馬にも乗らず指物旗など周囲にはなく、孤立無援ではもちろんないが、限りなくその状態に近い左馬之助殿を見つけたからだ。
ひと際きらびやかな鎧兜の侍大将だ。身なりからして周囲の者たちとは違うので、遠目にもはっきりとそれと分かった。
本来であれば大勢に守られ、後方にいるべき男だ。
百歩譲って、川を渡ったから騎馬ではないという理由はわからなくもない。
だが周囲を守る層があまりにも薄いのではないか?
いや、なんで槍を振り回しているんだ。まさかこの状況でド派手な口上でも言っているんじゃないだろうな。
距離があるのに、その場の視線が左馬之助殿のほうにむけられ、戦いが数秒止まるのが分かった。
胸を張り槍をふる堂々たる鎧武者。北条方の兵たちが同調するように拳を振り上げている。
士気を鼓舞する素晴らしい口上だったのかもしれない。
だがそれは、目立つ標的だということでもある。敵なのだから、心配をしてやるのもおかしな話だが。
だが渋沢よ。何故お前も前に出てくるんだ。
最前線の堀の上にたち、堂々と胸を張った黒い鎧兜の渋沢に、今度は今川軍のほうが拳を振り上げた。
今度は地鳴りのような鬨の声が聞こえた。
……この時代には勝千代のあずかり知らない作法がまだまだあるらしい。
その先のことは見ていないので分からない。
有無を言わさず、物見櫓から降ろされたからだ。
戦塵はまだここまできていないが、戦っている者たちの怒声は聞こえてくる。
脳裏をよぎるのは、ボロボロと落ちていく兵たちの姿だ。
今このときにも、大勢が死んで大勢が誰かを殺している。
「素晴らしい名乗りでしたね!」
このような状況下なのに、そう言った五郎兵衛殿の口調は弾むようで、その頬は上気していた。
渋沢のことだろうか。あるいは左馬之助殿のことかもしれない。
五郎兵衛殿の熱に浮かされたような表情を見て、この時代のこの年頃の男子が、ああいうのに憧れているのだと知った。
かっこよく見えるのだろうか。いつか己もと思っているのだろうか。
勝千代にはよくわからない感覚だ。
押し寄せて来る敵をその都度押し返し、人死にはそれなりにあるが双方ともに大きな痛手にはならず時間だけが過ぎた。
手をこまねいていたわけではもちろんない。
だが、城を出て敵を討つには相手が多すぎ、韮山城に連絡をとろうとしてもうまくいかない。
井伊殿らが到着するまであと二日は掛かるだろう。
それまでは、この城を守り通さなければならない。
逢坂老によると、戦力が拮抗している攻城戦が短期決戦ですむことはまずないそうで、籠城にまでもつれ込むと月単位にもなるそうだ。
今のところ兵糧は足りているが、これが何か月にも及ぶと厳しい。
兵を一か所に集めてよかったのだろうか。
いや、本陣が興国寺のままだと、兵五百ほどだった長久保はもたなかっただろう。
「北条軍おおよそ五千といったところでしょう」
そう推測するのは五郎兵衛殿のところの家臣だ。同意の頷きを返すのは、逢坂老と渋沢と、そのほか歴戦の者たち。
彼らがそう言うのだからそうなのだろう。
だが五千か。やけに多い。多すぎる。
本当に韮山城を囲っているのか? まさか既にもう落城したとか言わないよな?
「……総攻めか」
「はい。こちらの増援が到着する前に仕掛けてくるでしょう」
「間に合わぬか」
「北条も見計らっております」
だよね。
勝千代は深くため息をついた。
五千もの兵に一気に攻め込まれたら、防ぎきれるか怪しい。
少なくともこれまでのようにはいかないだろう。
「左馬之助殿は小手調べをなさっていたのでしょう。こちらの兵力などを探っておられたと見ます」
しかも、幾度となく繰り返される攻撃はいかにも甘いと感じていたようだ。
逢坂のしわ深い真顔を見返して、勝千代はぐっと奥歯を食いしばった。
「しのげるか」
「やって見なければ何とも申し上げられませんが、北条は忍び使い故に、本気で攻め落としにかかってくるなら本丸も安全とは言えませぬ」
今ここに至っても風魔小太郎の顔をみないということは、別口の仕事をしているのだと思う。
ここでないなら、対武蔵だろう。だとしても安心はできない。北条の風魔忍びは層も厚く手ごわい。
「ひとり落ちのびろなどと申すなよ」
勝千代は、逢坂が言いそうなことに釘を刺してから、ではどうすると顎をさすった。
風魔の襲撃について無視はしないが、それはさほど重要ではない。
五千の北条軍への対処も、できる限りのことをするしかない。
問題はその後。
井伊殿が到着すれば兵の数に大きな差はなくなる。
約一万の兵がぶつかる大きな戦になるのか?
それは現実的ではないと考えるのは勝千代だけだろうか。
……この戦の落としどころを先に考えておくべきかもしれない。




