50-5 駿東 長久保城5
勝千代は満身創痍の八雲の肩に手を置いた。
傷に触れてしまったのか、ビクリと大きくその背中が震え、「申し訳ございませぬ」と消え入るような口調で囁く。
「いや、よくやった」
八雲の食いしばられていた顎が緩む。ほっとしたように頭を下げ、そのままふらりと倒れ込みそうになった所を仲間の忍びが支える。
やはり北条軍には相当数の忍びが従軍しているようで、勝千代の影供を務める者たちだけでは手に余った。
だが、十分とは言えないが知っておくべきことは掴めた。
もたらされた事実に、聞いていた本陣の者たちが顔色をなくしている。
いやまだそれを真実と言うのには語弊があるかもしれない。彼らは遠目に「見た」だけだ。すぐに気づかれ、排除されてしまったので、詳細は不明だ。
八雲らは命からがら情報を持ち帰り、おかげで勝千代の確信は強まった。
北条軍は、狩野川の対岸にある戸倉城を奪い返した。
韮山に駿河衆が兵を進める途中で、さくっと奪った城なのだが、長久保城のさらに四分の一ほどの大きさしかない小ぶりな城なので、それほど重要視されず、残していった兵も少なかったようだ。
だが位置的には伊豆駿河国境の伊豆側。しかも、伊豆半島への入り口の要所にある。
そこを奪い返し、更に駿河よりの香貫山あたりに砦を築く気のようだ。
小さな山になっているので、狩野川が氾濫してもつかることはない立地で、むしろその川に守られるような形状。
つまり北条軍は、狩野川より南を実質的に奪い返したと言ってもいいだろう。
今現在韮山城がどうなっているのかわからない。
長久保城を奪わずとも、ほぼ完全に伊豆へのルートを遮断した形になっている。
完全に無理とは言わないが、兵糧の運び込みも難しいだろう。
そもそも、どれぐらいの兵で囲っているかもわからない状況、既に攻城戦が始まっているのか否かも不明。
まさかここまで素早く北条が動くとは思っていなかった。
「どうなさいますか、すぐにも兵を向け……」
「いや」
勝千代は、若干上ずった五郎兵衛殿の言葉に首を横に振った。
「ですが、砦を完成させ防御を固められてしまう前になんとかするべきです」
「このぶんだと国境付近の他の城も奪い返されたのでは」
口々に皆が不安を口にする。
駿河衆が三千の兵で奪ったのだから、同程度、いやそれより少ない兵でも奪い返すことは可能だというのは、誰もが理解している。
北条はいったいどれぐらいの兵をこちらに向けているのだろう。
三千もの駿河兵がいる韮山城を放置して、すべてをこちらに向けているのか? いやそれはあり得ない。
やはり京から二千の兵が戻っているとみるべきだろう。
なおかつ、武蔵方面からは完全に兵を引いたのではないか。
通常であれば、険悪な状況の敵に無防備な背を向けるなど恐ろしくてできないはずだが、北条殿は何か、彼らが攻め込んでこないという確証があるのかもしれない。
ああ、確信が持てる情報が欲しい。
すべてが「おそらく」「たぶん」で構成されたものは真実とは言えない。
一から十まで間違っているかもしれないのに、それを前提として動くしかないなど恐ろしすぎる。
だが、もどかしいこの状況に足踏みしていても何も変わらない。
今見えているものだけで判断するしかないのだ。
現在いったん攻撃は止んでいる。
相変わらずの曇天だが、東の空から明るくなり始めている。
明るくなれば、もっとわかることもあるだろうか。
手をこまねいているわけにはいかないのに、焦って動くわけにもいかない。
せめて韮山と連絡をとり、時を合わせて動くことが出来れば……
だが現状、風魔衆が分厚い網をはっていて、忍びが伊豆にはいることはできない。
忍びではなく、早馬でも無理だろうか。無理だろうな。
夜明けまでの一時、双方ともに短い休息を挟み、やがてまた攻城戦が始まるのだろう。
今のところ難なくしのげているが、これから増強されるだろう北条方の兵力が読み切れない。
いつ総攻撃をしかけてくるのだろう。早ければ数時間後の可能性もある。
だが幸いにも、今川兵の士気は高いままだった。
この先の戦況への不安はあれども、今は長久保城を守るのだという意気はある。
やがて、まわりの物の判別ができる程度には明るくなってきた。
勝千代はたいして話すことのない軍議を終え、再び物見の櫓に上っていた。
遠射された経験を踏まえ、柵は木の板で覆われていた。大人だと胸から上と言ったところだが、勝千代の視界は矢を射るための細長い狭間から見える所だけだ。
「……来ますな」
少し休めと言って下がらせると、三時間程度の本当の少しで戻って来た逢坂が、三時間ではなく丸三日英気を養ったようなつやつやとした表情で目をきらめかせた。
元気な爺さんだ。
勝千代は休んでも抜けない疲労感を忘れるよう努め、木製の狭間に顔を寄せた。
狭間の狭窄視野で、逆に遠くがよく見える気がする。
開けた野原のただ中に布陣した北条兵の陣容をじっと見つめた。
黄色の旗が目立つ。白い旗もある。遠くて文字までは読めないが、あの黄色は左馬之助殿の色だ。
夕べあれだけ激戦が繰り広げられたというのに、まったく減った感じがしなかった。
こちらの士気は衰えていないが、それは相手も同様のようだ。
「早くからご苦労な事だ」
ついぼやくように勝千代がつぶやくと、傍らで五郎兵衛殿が失笑した。
笑えるだけ肝が据わっている。
勝千代にその胆力はない。
「約束ですぞ。四半刻で降りると」
「もちろんだ」
櫓は目立つ木造だし、護衛付きのお偉いさんがそこに上っているのは遠目にもよく見えるだろう。大量の火矢を射られたら危うい、というのが逢坂老の言い分だ。
昨夜のことがあるので一蹴はできないが、あれは先手の挨拶のようなものだったと思う。
遠すぎる的に集中攻撃したとしても、当たらなければ矢の無駄だ。長い補給路を抱える北条軍にとって、備品の枯渇は直接命に係わる。おいそれと浪費は出来ないだろう。
布陣した北条軍に対応するように、大手門の外側に真っ黒な鎧の集団がいた。果たしてあれを黒備えと言ってもいいものか、そもそも鎧兜は黒っぽいものが多いのに、渋沢軍の場合は脚絆などの小物類まで黒いのだ。
ちなみに白地に染められた今川家の旗と、紺色に白抜きの福島家の旗が交互に立っている。
「……渋沢か」
遠目にも誰がいるのがわかるのは、もちろん渋沢の男前オーラがここまで届いているわけではなく、その指物や鎧の色などからだ。
隣で谷がぐっと歯噛みする音が聞こえた。
本人も渋沢の隣にいるべきか、勝千代の護衛の任を全うするべきか迷っていたようだが、好きにさせたらこちらを選んだ。
勝千代の方が波乱万丈、戦う機会が多そうだなどと思ってはいないだろうな。
最前線で采配を振るう渋沢の側にいる方が、よっぽどその腕を生かせるだろうに。
「はじまりますぞ」
逢坂がそう言うまでもなく、北条軍が迫ってくるのはよく見えている。
渋沢が手を振って何か合図をすると、並んでいた兵たちが大手門前から左右に散っていった。切掘りなどで待ち構えるのだろう。
一瞬、黒い兜の頭がこちらを向いた気がした。
狭間があるので、向こうから勝千代が見えるわけがないのに、目が合った気がした。
……やめろよ、死亡フラグだぞ。




