50-2 駿東 長久保城2
用心はしていたつもりだ。
戦況は、伊豆周辺だけを切り取ってみれば北条有利。
手をこまねいていては韮山を奪い返され、それどころか駿河国境を越えられかねない。
この状況で国境を侵され城を奪われたら、密約でのつながりどころではなく、河東の南一帯に所有権を主張されてしまうだろう。
せんだっての大雨で狩野川は増水し、氾濫はしていないがまだ濁った水の水位は高いそうだ。勝千代が北条ならばその力を借りて一気に川を下り……
「申し上げます! 正体不明の兵が長久保城の近くにっ」
そう、今川本陣があるここ長久保に直接襲撃を仕掛けてくる可能性は十分考慮のうちにあった。
「おびき出されましたなぁ」
そう言って笑うのは逢坂老だ。
「どれ、どれほどの数なのか見て参りましょう」
「慌てずとも見張りは出している」
勝千代は口元を隠したまま呟き、肩をすくめた。
物見の報告に浮足立っていた男たちが、信じられない者を見る目でこちらを見た。
そして、勝千代とその周辺が誰ひとりとして床几から腰を浮かせていないことに気づいたようだった。
「予期されておりましたか」
目を真ん丸にして問いかけてくるのは、五郎兵衛殿の側付きのひとりだ。
「あり得るとは思うていた」
だからこそ、大急ぎで長久保城に来たのだ。
大広間のどこかで長い嘆息がこぼれた。慌てて立ち上がっていた男たちが、次々に床几に座りなおす。
「丁重にお出迎えせねばなりますまい」
腕が鳴る、とばかりに前のめりになる岡部家の者たちは、暗がりでもわかるほど目をキラキラさせていた。
思えば五郎兵衛殿の御父上があんなことになって四年。おそらく岡部家が前線に出る機会はなかったはずだ。
勝千代にはその、戦働きで武功を上げるという感覚はよくわからないが、大きく勢力を削られた状態で若い当主が文官になったと聞けば、やきもきする思いもあっただろう。
それでも忠実に主家についてきたのがここにいる男たちだ。
勝千代は、こいつらにも首輪がいるのかと一瞬危惧した。
だがまあ、綱を引くのは五郎兵衛殿だ。
「申し上げます!」
もうその口上はいらないんじゃないかと思いながら、暗がりから聞こえてくる三浦平助の声の方向に顔を向けた。
篝火効果はたいしたもので、ようやく暗がりに慣れてきた目には燃え盛る炎は眩すぎ、平助がどこにいるかわからない。
「川から上がり、陣を整えているのは北条兵。その数二千」
ほうっとどこからかため息が聞こえた。
今日のうちに移動しておいてよかった。寡兵のままだと長久保は四倍の敵にかこまれ潰されていたかもしれない。
「……黄備えだそうです」
兵差五百ならなんとかなるか……と、この先の動きを考え始めていた勝千代の耳に、聞きたくはなかった追加報告が届いた。
紐や飾りが黄色い鎧兜と聞けば、思いつくのはひとりしかない。
左馬之助殿か。
呑気に間延びした口調で勝千代の名を呼び、「あはは」と大きく口をあけて笑う。
あの気のいい男と戦わなければならないのか。
「これが武士というものにございます」
逢坂老に「戦いたくない」という気持ちが読み取られたのだと察し、扇子の影でぎゅっと唇を引き締めた。
思い出すのは左馬之助殿や、遠山や、そのほか北条軍の顔見知りになった男たちの顔だ。
漠然と考えていた「敵」という言葉が、これまで以上の重圧となって勝千代を襲った。
いや、ここで怯んでいてはいけない。
長久保に兵を配したのは勝千代だ。それはつまり、彼らの命に少なからぬ責任を負ったという事だ。可能な限り手を尽くして敵を追い払い、味方の被害を最小限に防ぐのは当然の義務だ。
「……わかっている」
大きく息を吸って吐く。
心を鎮めようと目を閉じて、腹に力を入れる。
じわりとわき腹の傷が痛んだ。
「予定通りに伏兵で迎え撃て。敵はこちらより多い。城にたどり着くまでに少しでも数を減らすように」
ああ今、大量の人間を殺せと命じたのだ。
耳の後ろを通る血管が、ドクドクとひどく大きく鳴っている。
己の采配ひとつで、敵はもちろん味方も死ぬ。世の武将たちのように、これに慣れる日は来るのだろうか。
ひやりと冷たい手が、首筋に迫っているような気がした。
これは命をかけた戦いだ。敵も味方も皆たったひとつしかない大切な命をベットして、死に物狂いで戦う。
戦国時代の当たり前の感覚では、ここで躊躇していることこそが余計なのだろう。
そうだ、己以外の誰かの心配をしている場合ではない。他ならぬ勝千代の首を取ろうと、敵は迫ってきているのだから。
篝火の向こうの、真っ暗闇にしか見えない夜の屋外に目を向ける。
狩野川から長久保まで、走り通したとしても数時間はかかるだろう。
夜襲をかけようとしてのこの時刻だろうが、こちらが気づいたと察知されたら伏兵に警戒して朝まで攻めてこないかもしれない。
「これで韮山城を囲む兵は減っただろうか」
勝千代がそういうと、庵原殿がさっと強い視線を向けてくるのを感じた。
意地悪をしているわけではないのだろうが、逢坂老が疑わし気に首を傾ける。
「左馬之助殿がいらっしゃるということは、京から帰還した兵もまじっているでしょう。北条の総軍がどれほどか測れなくなってまいりました」
「だがとりあえず、ここに来ようとしているのは二千だ」
別ルートでも兵を進め、挟撃しようとしているのでない限り。
勝千代は外に向けていた目を屋内に戻し、暗すぎる軍議の場を見回した。
「まずはどうやって北条の攻城をしのぐかだ」
城の防衛のために、どこに兵を配し、どう戦うかという擦り合わせをしておかなければならない。
勝千代の言葉を受けて、ギシギシと床几が軋む音が続いた。




