49-2 駿府 今川館 勝手方広間
今川館の内部に入るには、厳重な決まりごとがある。
端や従僕などはまた別なのだが、下級の武士や身分の定かでない者が立ち入ることができるのは一定の建物内だけだ。
勝千代は待っていた男の訪問を告げられて、長い廊下を速足で歩いた。
一見の商人などは特に、御勝手口につながった蔵も兼ねた建物のみにしか足を踏み入れる事は出来ない。
久々に見る日向屋総番頭佐吉は、着せられたような一張羅の着物を身にまとい、何故か頬に青あざを作っていた。
もはや本職が忍びなのか商人なのか定かではないが、おいそれとそういう目に遭う男ではないはずだ。要するにわざと殴られたというところだろうが、そこ以外に目立った怪我はなさそうなので、とりあえずは見ぬふりをする。
「わざわざ済まぬ」
「いえ。御壮健そうで何よりです」
今川館内でのあれこれが、外部にどういう風に伝わっているのか定かではないが、随分と心配してくれたらしい。
勝千代の姿を見てほっとしたように表情を緩め、ずらりと並んだ護衛や側付きたちに不安そうな目を向けた。
「……ご要望の品は船便にて。第二陣は明日に到着予定です」
「そうか。助かる」
瀬戸内や大河の上り下りではなく、紀伊半島沖を大きく回って太平洋沿いを北上してくるのは簡単なことではない。
小さな船では到底無理で、もっと大きな、北や南あるいは国外との交易に使う大型船が清水湊に寄港していた。
今の時期は比較的波も穏やかだというが、楽な船路ではないだろう。
「例の件はどうなっている」
「はあ」
佐吉はこの場で話していいものか迷う風に口ごもったが、勝千代が促すと心得た様子で頷き返してきた。
「動きはありませぬ」
「……動いていない?」
左馬之助殿ら京にいる北条家の兵士たちはおおよそ二千。そのほとんどが伊豆衆と残りは相模の国人だと聞いている。
あちらには風魔忍びがついているから、駿河衆が伊豆に攻め込んだという一報は既に伝わっているはずだ。大急ぎで帰還するとばかり思っていたのだが。
「戻る気がないということはあるまい」
「伊勢殿が」
佐吉は言葉を濁したが、言いたいことはわかった。
北条軍を京に呼び寄せた伊勢殿らが帰還を許さないというのだろう。だが国元に攻め込まれているのだ、諾々とそれを受け容れるわけがない。
北条陣営には左馬之助殿だけではなく、癖が強いあの童顔の僧侶もいる。誰がどう引き留めようとも、しれっと陣を引くと思っていたのだが……
「相模が取り返すと信じているのか?」
長兄への信頼? いやそんな精神論でなんとかなるものではない。
相模の兵力はおおよそ六千。武蔵との全面的ないさかいも考えれば、伊豆方面に割ける兵は最大限でその半数と言ったところだろうか。
今川家と手切れになってしまえば、北条は多方面を敵に囲まれかなり困ることになる。
まさか実兄に試練を課したいとか、窮地に陥れたいとか、そんな事を考えるはずも……ないよな?
ふと脳裏をかすめたのが、異様な雰囲気の伊豆衆だ。寸前まで狼藉もの風の荒武者ぶりだったのに、合図もなく一瞬にして従順な様を見せた。いやいやいや、自身の国を奪われようと言うのにそういう特殊プレイ的なものはないはずだ。
勝千代は馬鹿な方向に傾こうとする思考を引き戻すべく、ごしごしと眉間を擦った。
左馬之助殿らの二千の兵がいまだ京から動かないというのであれば、それは戻れないのではない。戻らないのだ。
仮に背後の敵がいなかったとしても、北条が今川と戦ってしのげるかは微妙。
それなのに戻らないのには、何らかの理由があるはずだ。
勝千代はちらりと見た佐吉の表情に、含みがあるのを読み取った。
何かを言う気はあるようだと頷きを返し、席を立つ。
「もうひとつ頼みたいことがあるのだ」
「はい」
「今川家御一門衆の堀越の姫が、この度嫁ぐことに相成ってな」
歩きながら、佐吉を促して勝手所の広間を出て、本殿や北殿ほどではないがきちんと整備された庭に降りる。
土井が素早く草履をそろえて置き、佐吉は己の懐から履き物を出してきて履いた。
「堀越の姫君ですか?」
いまいちピンときた様子のない小柄な男に、うんうんと頷きかける。
「急ぎ結納を結ぶことになった。婚儀も早まるやもしれぬ。支度を頼みたいのだ」
「それは手前どもでよろしいのでしょうか? 今川家の御用を承る商家がおありでしょう」
「いや、いささか厄介なことになっていてな」
勝千代は何も、米座を含む駿府の大商人すべてを拘束したわけでも、罪に問うているわけでもない。
だが今のところはぎくしゃくとした関係なのは確かで、とにかく急いでいる婚礼の支度を任せるほどの信頼関係を築けてはいない。
「堺衆に任せるのであれば、後々角も立つまい。紹介状を書く故に、堀越屋敷のほうへ行ってやってくれ。係りの方は御屋形様がご用意くださるそうだ」
「それはそれは」
わざと大きな声で喋りながら、広い庭の松の木に向かって歩く。
周囲にいるのは勝千代の護衛と、側付きと、渋沢の兵らだ。
それを念入りに目で確かめて、彼らにも少し下がるようにと指示を出し……勝千代はふと気を引かれたふりをして足を止め、邸内を流れる小川を見下ろした。
勝千代は立ったまませせらぎを見下ろし、佐吉はその足元に片膝をつく。
勝千代の視線はずっと、小川を泳ぐ小ぶりなフナを見ていたが、佐吉は口元が周囲から見えないように顔を伏せ、かろうじて聞き取れる小さな声で言葉を続けた。
「長綱様のご裁可により、主だった左馬之助様のご配下が処罰されました」
処罰……処罰?
その言葉の真偽を問いただしたいのをぐっとこらえた。
例の裏切りの件なら、主要な者は遠山らからきつい仕置きを受けたのを見た。それ以上にまだ何かがあると?
「米の件も、謀反に気づかなかったことも、すべて左馬之助殿に責任があるとして御大将の任を解かれ、謹慎中ということです」
「それはいつの事だ?」
「十日ほど前です」
まだ伊豆の件は伝わっていない時期だ。富士川の氾濫も微妙なところだ。
「風魔はどうしている」
「盛んに動いております。頭目が長綱殿に従ったのかどうかはわかりませぬ」
「左馬之助殿や遠山殿は生きておるのだろうな」
「死んだとは聞いておりませぬ」
つまりは北条家の内々で権力闘争が起きているという事か? よりにもよってこんなタイミングで?
だから兵を動かせないのか? ……いやいや、あの長綱殿だぞ?
例えばひそかに兵を分けて、伊豆に帰還させようとしている可能性はないか?
勝千代はふと、足元の小柄な男に視線を向けた。
たとえば大型の商船なら、乗員は五百ほどだと聞いた。積み荷として兵を乗せるのであれば、もっと乗るだろう。
「……引き続き動きをよく見張っておいてくれ。海路もな」
北条に水軍はいただろうか。そのあたりの事も、もっと詳しく知っておくべきだと気を引き締めた。




