48-3 駿府 今川館 本殿広間1
大抵の出来事には何がしかの事情がある。
ある日唐突と感じてしまうのは、その事情を「知らなかった」からだ。
駿河衆が河東から伊豆に攻め込んだのにも勝千代が知らない事情があった。
そもそも、駿河河東の一角には、北条色の強い国人領主が入り混じっているのだそうだ。
前述した勝千代の中の「思い込み」「国境はかくあるべし」の感覚では、他国の家臣が駿河国内に城を保有し砦を築くなど、理解しがたい。
何度も言うが、国境に線などは引かれていない。そこに住む者たちがどこに帰属意識を持つか、たとえば小さな山の頂を国境に向き合う少領の国人たちが一斉に北条を支持すれば、駿河の国内だといっても今川色を強く押し出せはしないのだろう。
それを今川家の陰りととらえるべきか、勢いを増す北条家への色気と取るべきか。
自領を守らねばならない国人たちにとって、より強い方へ色よい顔を見せるのは当然ともいえる。
じわじわと気づかれないうちに駿東に勢力を拡大し、いつかは富士より東を北条家の勢力下に収めようと動いていた、というのが今回の侵攻の申し開きだ。
正直なところ、駿河衆が伊豆へ踏み込み、国境の砦を奪ったという事実には、こちらに非があるとしか思えない。
ただし、桃源院様の目の色が黒いうちは我慢を強いられてきた河東の武士たちが、今を機にと駿河から北条家に味方する者を追い払おうとした、という見方もできなくはない。
もしかすると当の北条殿自身、今川家に被官としてみられることに忸怩たる思いでいたのかもしれない。
だからこそ、こちらに気づかれないよう国人領主たちを引き込もうとしてきたのだろうか。
いや、気づかれないように、と言うのには語弊がある。
ここ数年で河東への支配力が弱まり、時に甲斐に攻め込まれて好き勝手されていたのはどう考えても今川家の勢力の陰りだ。
今のような時代、国境を接している二つの国同士、たとえ同盟国だとはいえ全幅の信頼を置けはしないという事か。
「……なるほど、これが証拠ですか」
勝千代は、下座で「はい」と頷き返した朝比奈殿から、その背後に控える葛山殿に目を向けた。
責められることは何もないと言いたげに胸を張るのは、攻め落とした城で斎藤某という者が隠し持っていたという書状があるからこそだ。
勝千代に言わせてみれば、いくらでも偽物が量産できそうな書き付けにしか見えなかったが、この時代の書類というのはこんなものだ。
一応血判状の態をしていて、署名の下に拇印が押されている。滲み過ぎて指紋の判別ができるような形状をしておらず、いかにも怪し気だ。
とはいえ、これが戦の口実として役に立たないかと言われると、否だ。
証拠などいくらでも捏造できる。いくらでもいいわけが利く。
それがこの時代なのだ。
現状、駿河の兵たちは国境をまたぎ、伊豆側の小さな城と砦をいくつか押さえている。
北条側からのリアクションはまだない。
それとなく味方するようにと、書面での合意を交わしていた北条側に対して、今川家は明確にその勢力範囲内に踏み込んだ。
これが現代社会であれば、世界は今川家を非難するだろう。
だがこの時代は勝った方が正義。立派な口実もあるわけだし、世の習いとしてはこのまま伊豆を奪い取るのが正道なのかもしれない。
まだ伊豆の兵は京にいる。
奪ってくれと言いたげに、国をがら空きにしている方も悪い。
勝千代はじっと問題の血判状を見つめ、ため息を堪えた。
庵原殿が鼻息荒く陣立てをして、承菊がさもそれが正しいという風に周囲をおだて動かしている様相が目に見えるようだ。
「いつか京にいる伊豆衆が戻って来ます。対応できますか」
「やすやすと戻らせは致しませぬ」
いや、その自信はどこからくる。
勝千代は、北条殿の弟たち、特にあの童顔な僧侶の顔を思い出して身震いした。
承菊と並べて想像すると悪寒が走る。
この時代の僧侶などなんちゃってだ。ビジネス僧侶だ。平気で血なまぐさい手段をとってくる二人とは、できる事なら関わり合いになりたくない。
だがそうもいっていられないのが現実だ。
承菊がこの機を選んで動いたのは、すべての状況が好都合だったからだ。伊豆はがら空きで、今川家内で大きな障害になる桃源院様は幽閉中。遠江衆は信濃を向き、御屋形様も病床で動けない。
ああ、確かに今が好機なのだろう。
「……あなた方の言い分はわかりました」
勝千代は確かに御屋形様の実子だが、今川家内での地位や権限があるわけではない。
ここで駿河衆を止めるのも好きにさせるのも、御屋形様が判断するべきことだ。
勝千代は元服もまだの子供であり、許されているのは今川館での不正をただすことのみなのだ。
「こちらからも葛山殿に報告せねばならないことがひとつあります」
「……は?」
勝千代の同意を得たと表情を明るくした葛山殿が、若干警戒したように顎を引いた。
勝千代は、部屋の隅に控えていた土井に目配せをする。
土井が無言のまま頭を下げて、閉ざされていた襖を丁寧な所作で開いた。
真っ先に見えたのは、あでやかな赤い着物だろう。
だがその打掛の見事さよりも、美しく畳の上に零れ落ちる長い黒髪にまずは目が行く。
誰の目にもわかるほどに身分ありげな姫君は、勝千代に向かってしっかりと頭を下げ、己が下位者であると主張していた。
ただ頭を下げているだけでそれを示唆するというのも、なかなかできた女性だ。
「堀越の妙姫です」
「……はあ」
北対の庭で見かけた美しい女性。まぎれもなく今川一門衆の姫君だ。
葛山殿はさっぱりわからぬ風で頭を下げたままの彼女を見つめ、肩口から流れ落ちる緑の黒髪にぼうっと見惚れていた。
「……お初にお目にかかります義父上さま」
しっとりとした、芯のある声が、葛山殿を義理の父と呼び、葛山殿は度肝をぬかれた様子でぽかんと口を開けた。




