48-1 駿府 今川館 本殿
与えられた個室の板間で、勝千代は朝比奈殿からの密書に目を通し、顔を顰めた。
ドクドクと不規則に心臓が鳴る。本当に健康に悪い。
一通り読み終え、黙って傍らの井伊殿に書簡を回した。
井伊殿の表情も見る見る間に険しくなって、やがてくぐもった呻き声がこぼれる。
「……やられたな」
内容は、河東の駿河衆が戦闘にはいったという知らせだった。なんと相手は伊豆北条だ。
状況の把握も追いつかず、取り急ぎ送られて来たのは五日前の知らせだ。理由や経緯より先に、圧勝という結果がついてきていた。
その事を聞いた瞬間、脳裏に過ったのは承菊のつるりとした美しい頭だ。
あの男は勝千代と一緒に京にいた。つまりは、伊豆衆の大半が不在であり、北条一族が分断され、頭脳と右腕がまだあちらで手間取っていると知っていたわけだ。
勝千代とて、ちらりとも考えなかったわけではない。だが仮にも同盟国、強固な血縁で紡がれた絆を、一介の家臣の一存で破棄するなどあってはならない事だ。
止むにやまれぬ状況にあったのだろうか。長年にわたる同盟関係を破り捨てるほどの事態が、何か起こった?
頭の中で予想を立てるなどいくらでもできるが、重要なのは事実だ。
この先今川家がどう動くべきか、まずは駿河衆の行動を容認するか否かから考えなければならない。
「厄介なことになりましたな」
井伊殿がそう言って、しきりと顎を撫でまわしている。その表情は複雑怪奇だ。
気持ちはわかる。一体何が起こっているのか。詳しくわからないながらも、何とも表現しがたい不愉快さというか、不可解さというか、不条理感というか。
状況の把握が最優先なのは確かだが、何もせず手をこまねいていれば取り返しのつかない状況に陥ってしまうだろう。
甲斐が河東側から攻め込んできたわけではないとわかった時点で、無傷な軍勢で何をするつもりだろうと不安を感じてはいた。
一番の危惧は、朝比奈軍への攻撃だった。甲斐軍とまとめて朝比奈を葬ろうとしてくるのではとひそかに心配していた。
まさかその矛先を伊豆に向けるとは……
「ここぞとばかりに動いたのでしょう」
勝千代は、手の中の扇子を弄びながら、広間に集まっていた武闘派側の駿河衆の顔を思い起こしていた。
遠江衆といっても、古くから土地に根付いた者もいれば、ここ数十年で所領を得た者もいる。同様に駿河衆と言っても、御屋形様の時代から戦に明け暮れていた武闘派の連中もいれば、今川館で甘い汁を吸ってきた者たちもいる。
それらが明確にどこかで区別つくものだとは言い切れない。同じ一族の中でも、考え方に違いが生じることもあるだろう。
たとえば北条に送る米の幾らかを自国に回せば、もっと楽に戦えるのにと反感を抱いている者がいたとする。
そんな中、御屋形様が明確に桃源院様の方針に否という立場を示した。それはつまり、これまでの北条家優先の同盟関係を見直すという意思表示に他ならない。
なるほどそうなれば、隣国北条は攻め込みやすく切り取るのに狙い目に見えたかもしれない。
「伊豆の幾らかを奪い、北条との交渉を有利に進めれば、駿河衆の立場が増し、意見も通りやすいと踏んだのでしょうか」
「いやそもそも、許可なく戦を起こすというのは」
勝手に動くのは問題外だ。だが御屋形様は病床。指揮系統は大いに乱れている。
御屋形様の病状が回復不能なほど篤いとみて、国内を安定させるためにあえて目をつぶらざるを得ないという甘い目論見があったのだろうか。
勝千代はぎゅっと眉間にしわを寄せた。
桃源院様が恐れ、長年防ごうとしてきた状況はこれだろう。
御屋形様という重しがなくなれば、支配が弱まり勝手に動く者も出てくる。国が乱れ、最悪の場合は独立をもくろむ者たちもいるかもしれない。
「……大なり小なり、代替わりの時には起こる事でしょうが」
井伊殿は勝千代の難しい表情を見て、同様に苦い顔で首を振った。
「もっとうまく備えておくことはできましたな」
そう、御屋形様が病気に倒れてからもう四年になる。それだけあれば、なんとでも手立てはあった。上総介殿の周囲を守役なり側付きなり後見役なりでがちがちに固めておけばよかったのだ。
あるいは、ここまで桃源院様に権限を許すべきではなかった。
庵原殿でも誰でもいい、その専横を恐れるのではなく、国を任せてしまえばよかった。
今よりはよほど、安定した国情になっていた可能性はある。
勝千代は床に置かれた朝比奈殿の書簡から目を逸らし、ため息を飲み込んだ。
今ここであれこれ思案しても仕方がない。過去のタラレバよりも、これからどうするかの方が重要だ。
戦は始めるのは簡単だが、おさめ所が難しいのだ。
「葛山殿の御養子、北条の弟君は話ができる状況でしょうか」
ふと、番所で虫の息で救出した男の存在を思い出した。
北条家の男子が、今川家の一家臣の養子というのは、ずいぶんと独特な立場だ。
母親の身分が低いからかもしれないし、本人の資質の問題かもしれないが、現在の北条家当主の実弟だということは間違いなく、それだけでも意味がある。
勝千代の頭に過ったのはただの思い付きだったが、考えれば考えるほど悪くない気がしてきた。
「……いや、何も聞いておりませんが」
「葛山八郎殿をどうされるので?」
井伊殿が首を傾げ、隣に座る逢坂老とちらりと視線を交わす。
勝千代は一つ頷き、次の手を打つための指示を出した。




