47-8 駿府 今川館 北対離れ2
この冊子には、ひとつひとつの案件が記され、主なものは米の動きだが、いつどこにどれだけの量移されたのかが明らかになっている。
それらすべてを読み上げるのは骨だし、お互いの体力ももちそうにない。
本職の警察官や税務官であれば、些細な件も、それこそ重箱の隅を突っつくように質疑するのだろうが、とてもじゃないがそれができる量ではなかった。
特に規模が大きく、年貢ですかと尋ねたくなる量のものを選んで読み上げたが、年季の入った老獪さ……というよりもふてぶてしさで総スルーされた。
何を聞いても「知らぬ」「覚えておらぬ」「わかるわけなかろう」と、内容を把握しているのかどうかも定かではない返答だ。
額に筋が浮きそうになりながらも、十五年ほど前から徐々に年代を繰り下げていく。
こんなことに意味があるのか? いやむしろここに記載してあるすべてを読み上げるべきではなかったか。
かなり膨大な量なので、記憶があやふやになるのはやむを得ないのかもしれないが、すべてを「知らない」「わからない」で済ませることなどできるわけがない。
そんな事は、桃源院様も十分にわかっているはずだ。
それでも、悪いことなどしていないと信念があるからか、その感情には一片の揺らぎもなかった。
だが六年前ほどから、その返答の内容が少しづつ変化し始めた。
無言で返答がないもの、顔を顰めているもの、「は」と鼻を鳴らしたもの。
もしかしたらそれらのいくつかは桃源院さまとは別口なのかもしれない。
ああ、筆を持ち込むべきだった。
「……いい加減になさってください」
勝千代が抗議すると、ふいっと視線がそれる。
「ねちねちとやかましい童じゃ」
健康な時には、御屋形様と姉弟のようにも見えたが、命にかかわる怪我をしていればさすがにその美貌も色あせる。
顔の色は死人のように青白く、まるで幽鬼のような形相で、その憎々し気な視線だけで勝千代の息の根を止めて来そうなほどだ。
「いっそ殺せ」
「一応申し上げておきますが、人は舌を噛み切ったところで苦しいだけで死ねぬそうですよ」
刃物が遠ざけられているこの病室で、桃源院さまが自死しようとするならば、紐で首をくくるぐらいしか方法がない。
いやそれをする体力もなさそうだから、念のためにと釘を刺しておく。
「その首をいずれ掻いでやる」
「それでは毎日きれいに拭いておきましょう」
桃源院様の顔色がますます悪く、声に張りもなくなってきて、今日はここまでかと冊子を閉じる。
日をまたぐどころではなく、長丁場になりそうだった。
「お疲れ様でございました」
疲労困憊状態で部屋を出た勝千代を、大勢が出迎えてくれた。
入ったときにはいなかった井伊殿までもが、雁首揃えた中に混じっていた。
「なかなか手ごわいようですな」
「……簡単に済むとは思うておりません」
何故ここにいるのだと問いただしたかったが、我慢した。
どうせ面白そうだと様子を見に来たのだろう。
「それよりも、六年ほど前からの反応が微妙でした。他の者が関わっているかもしれません」
今川家の為にと桃源院様がしたことではなく、何者かが私腹を肥やしていたのであれば、それも突き止めておきたい。
「もう少し詳しく下調べが必要なようです」
「どの部分でしょう」
「六年前の……」
井伊殿に問われるがままに、歩きながらそう答えようとして、渋沢の配下が何やら合図してきたことに気づいた。
勝千代たちが歩いているのは、北対エリアの広大な庭だ。
美しく手入れがされていて、雑草一本はえていないし、木々も剪定が徹底している。
故に、少し距離があっても歩いている人影にはすぐに気づけた。
渋沢の配下が動かないところを見ると、不審者ではないのだろう。
だがこの状況で呑気に庭を散歩している事に、若干の違和感を覚えずにはいられない。
「……あれは?」
やけに大勢の女官に囲まれた小柄な女性がひとり、ゆっくりとした足取りで庭を歩いている。
年齢はおそらく二十台の半ばほどだろう。
勝千代の問いかけに返答したのは渋沢で、ものすごく嫌そうな表情を浮かべていた。
「堀越の姫君です」
堀越。今川家の数少ない一門衆だが、先代の子が女児ばかりで婿養子を取り、ようやく生まれた男子はまだ乳飲み子だと聞く。
遠江の見付端城に居を構えるかなりの家柄だが、その人員のほとんどが駿府にいて、勝千代的には家は近所にあるが縁遠いという印象だ。
「ご側室のお一人か?」
「いえそういう事ではないようです。人質扱いの賓客です。他にも複数名、北対に部屋を与えられている方々がいらっしゃいます」
北対にいるのがすべて御屋形様の側妾ではないというのは察していた。
人数が多すぎるからだ。
「人質は女性ばかりなのか?」
「桃源院様の御意向です。御台様は厭うておられましたが」
御台様が起こした騒ぎを思い出し、勝千代は渋沢と同じように苦いものを飲みこんだ。
「……おい、こちらを見ていないか?」
勝千代の指摘に、渋沢がさっと身を引くようなそぶりを見せた。木陰に隠れようとでもしたのだろうか。だがまあそれで、何故彼の表情が優れないのか理由はわかった。
だが……一門衆か。
勝千代は頭の中で、今川家の家系図を広げてみた。
たいして枝葉は広がっていない。御屋形様の代における一門衆の数は、片手の指でも余るほどなのだ。
渋沢にそのあたりにも目を光らせるよう言いたかったが、顔色を見てやめにした。
人には向き不向きがある。
この男にこれ以上のストレスを与えると、胃に穴が開きそうだ。
わかる、わかるぞ。
勝千代は、なんだかこちらに近づいてきそうな一団を横目で見ながら、そっと腹部をさすっている男に深く共感した。




