47-7 駿府 今川館 北対離れ1
入口の障子の前に座り、声を掛けようとした寸前、くぐもった呻き声のようなものが聞こえた。
掠れて聞き取り辛い女性の声だ。恨みつらみがこもった慟哭は、さながらホラー映画かリアリティ抜群のゲーム音声のようだった。
ぞっと全身の毛が逆立つ。
怯みかけた気持ちを引き締め、呻き声が一通り収まるまで耳を澄ませて待った。さすがにこの最中に障子を開ける度胸はない。
漏れ聞こえるその言葉を聞いているだけで、陰鬱な気持ちが増した。
恨み言はもっぱら御屋形様に対するもので、「何故」「どうして」「わたくしは今川家のために」と続く。
ここまで聞いて、御屋形様が実の母親を手に掛けた理由を察した。
この御方は、これまで己がしてきたことは間違いなく今川家の為だったと信じているのだ。
おそらくは大量の米を北条家に送り続けている事実も、それが横領だとかそういう認識はない。
すべては今川家を守るため。
御屋形様が病に倒れ、嫡男はまだ幼少。この難事を乗り切る為には、多少の荒事も厭わない。そういう強い信念があったのだろう。
だが御屋形様はそう思わなかった。ご自身の死後、桃源院様の行動がますますエスカレートしていくのを、よしとはしなかったのだ。
―――「後始末をしておかねば、後の者が困りますので」
桃源院様に切りつけた時、御屋形様が呟いた一言が忘れられない。
後始末。
桃源院様の成した諸々を、一片の元に余計な事だったと切り捨てる文言だった。
人生のすべてを捧げてきた息子のその言葉に、桃源院様はさぞ裏切られた気持ちでいるだろう。
同情する気持ちはない。ざまあみろとも思わない。
この障子の向こうにいるのは、ただ利害の不一致で立場を違えた相手なだけだ。
もちろん恨みはある。何故だと問いただしたい気持ちもある。
だがそれは、理性で処理するべき感情だ。
「失礼いたします」
体力が尽きたように黙り込むまで時を置き、勝千代はそう声をかけた。
返答は待たない。丁寧な所作で障子を開けて、薄暗い室内に目を凝らす。
入口の一方だけが障子で、残りの三方は襖で締め切られていて、明るい外に慣れた目では室内の様子はよくわからなかった。
鼻を突くのは、重傷者特有の体臭だ。不快に感じるほど甘ったるく、薬草の匂いと混じると何とも言えないものになる。
「少し風を入れましょうか」
勝千代はそう言い、無遠慮に室内に足を踏み込んで外に面した襖を開いた。
吹き込む風が、室内のよどんだ空気を一掃する。
ふと下げた目線の先に、渋沢らの首だけが並んで見えた。……心配なのはわかるが、近すぎないか?
アイコンタクトで大丈夫だと頷くと、決意を込めた表情でこっくりと頷き返された。
おいこら谷、お前今刀に手を置いただろう。
起き上がれもしない怪我人相手に行動は起こすなと、呆れた目で言ってやると、渋々という感じで谷の肩から緊張が抜けた。
勝千代の位置からは見えないが、きっと刀の柄は握ったままだろうが。
「……何をしに参った」
背後からそう声を掛けられて、はっと身構えた。
呼吸数回分息を整えてからゆっくりと振り返る。
こちらに顔を向けた桃源院様の、青白くやつれた面差しと、目だけが異様に光る様にまた少し心が怯んだ。
勝千代は、右手に持った冊子をぎゅっと握りしめ、負けるな怯むなと己を鼓舞しながら、血縁的には己の祖母にあたる桃源院様と、初めて近距離で視線を合わせた。
「見舞いではございませぬ」
いや、初手からそんな喧嘩腰でかかる気はなかった。
勝千代は眉間にしわを寄せ、桃源院様は「は」と鼻で笑う。
「言いたいことがあるなら疾く申せ」
いかにも目障りな邪魔者、さっさと去れと言いたげな口調に、改めて気を引き締めた。
回廊を背に、居住まいを正して座る。
冊子は右側に置き、胡坐をかいて、大振りな袖をさっと後方に流した。
そこまで意を決していても、何から話せばいいのか迷った。
この御方に言いたいことは山ほどあった。それこそ箇条書きにして読み上げてやりたいほど。
だが勝千代が言わずとも、桃源院様も自覚しているだろう。
少なくとも、何故御屋形様に切り捨てられたかについては、認めたくはないだろうが、察しているはずだ。
「御屋形様は、桃源院様のやりように否やとの結論を出されました」
勝千代はその、桃源院様がもっとも聞きたくないであろう所から攻めることにした。
「忠実なる家臣を簡単に切り捨て、邪魔になりそうだからと排除し、目障りだからと意図して攻め込ませその勢力を削ごうとなさる。……あなた様がなさってきたことは、我らの目から見れば明らかな裏切りです」
「……っ」
「我らから見た今川家がどういう存在になり果てたか、その原因を作ったのはどなたか、御自覚はおありでしょうか」
「そなたに、そなたごとき童に、なにがわかると……っ」
「わかりませぬ」
そんなもの、わかりたくもない。
「家臣はただ諾々と、言われるがままに死ねと? 忠義の返答がそれですか?」
勝千代は、ますます幽鬼の如き形相でこちらを睨む桃源院様に、静かに、毅然として応えた。
「我らは、指し手の気儘に踊らされる盤上の石ではありません」
「そなたとて! そなたとて今川家の家督を狙っておるのであろう!」
「いいえまったく」
結局はそこに行きつくのだな。
勝千代は大きく息を吐き、呆れた表情で首を左右に振った。
「出る杭が必ずしも出たがっているわけではないと考えた事はおありでしょうか」
人間は、己の枠に当てはめてしか物事を想像できない。自身が望むことを、相手も欲していると思い込む。
「あなた様が価値あると思われるその立場を、万人が望むと考えるのは傲岸というものです」
桃源院様の表情が、ここにきて初めてあっけにとられたような、意表を突かれたような揺らぎを見せた。
勝千代がそう返してくるなど、おそらくきっと、想像もしていなかったのだろう。
「すべての杭を潰していくことが、正しい道だとお思いだったのでしょうが……」
それを何というか知っているか? 藪蛇というんだぞ。子供でも知っている生きていく知恵だ。
安住の地の藪をつつかれた蛇が怒るのは当然だ。テリトリーを侵され危険が迫ってきたのだから、牙をむくし噛みつきもする。
「潰された方の痛みを、苦しみを、憎しみを……少々甘く見ておられるのではないでしょうか」
勝千代は傍らの冊子を手に取り、膝の上に乗せた。
「我が父を、我が家臣を、我が領民たちを傷つける者こそが、まごう事なき我が敵です」
予期していない方向から敵だと言い切られた桃源院様の、青ざめ途方に暮れたような表情を、哀れだなどとは思わない。
藪を叩くのなら、噛みつかれる覚悟ぐらいはしておくべきだ。
反撃されるなど想像もしていなかったのだろう?
これから正攻法でその罪を積み上げてやる。誰にも文句など言えないほどに。
それが、今の勝千代に出来る戦い方だった。
難しいシーンです。
手を入れて書き直すかもしれません。




