46-6 駿府 今川館 北対3
硬い床の上からの視点で、後ろ姿まで美形な男が刀を抜き放つ瞬間を、ただ黙って見ているしかなかった。
全身のほとんどをダークカラーでまとめた男は、さながらその銀色の刀でさえ黒であるかのように映った。
待て。
勝千代は、その背中に向かって手を伸ばそうとしたが、痛みにもがいているとでも思ったのか、浮いた腕を強く床に押さえつけられる。
痛いし、急激な貧血状態だし、胴体と腕とを押さえつけられているし。
人間、腹と肋を圧迫されるととっさに声なんて出ないんだよ。
勝千代は、渋沢を止める事が出来なかった。
まるでスローモーションのように、高笑いする老婆の口に切っ先が埋まった。
吹き上がる鮮血が、勝千代の位置からだとまるで公園の歩道に並ぶ小さな噴水のようだった。
更に進もうとしている先は、上座だ。
それは駄目だ。さすがに駄目だ。
いまだ、そこかしこで悲鳴が上がり続けている。
息が出来ずかすむ視界の先で、御台様がさすがに身の危険を感じた風に後ずさっている。
勝千代は、渋沢に伸ばしたのとは反対方向の手に、扇子を握りしめている事に気づいた。
肺をつぶしそうな勢いで押さえつけている男の頭を、その扇子で力なく叩く。
井伊の次男坊ははっとしたように力を緩めた。馬鹿力め。
ようやく肺に空気を吸い込んで、げほげほと軽く咳き込む。
「……若!」
ああ、またややこしい奴が来たぞ。
逢坂老の怒声が鼓膜を震わせる。
「ここにいる全員の身柄を確保、ひとりたりとも部屋から出すな」
白エノキ田所までいるじゃないか。
ややこしいとは思ったが、彼らが渋沢を止めてくれるだろうと期待していた。
いくら何でも、福島家の家臣が御屋形様の御正室を手に掛けるなど、そのようなことがあってはならない。
両家の間に今以上に重大な禍根をのこすことになってしまうし、なにより手に掛けた渋沢が責任を取らされるのは必須だ。
だがあろうことか、勝千代の状態を見た逢坂老やその他の者たちも、止めるどころか今にも抜刀しそうな有様だった。
これはいけない。
勝千代は力を込めて、最寄にあった彦次郎殿の肩を扇子で数回叩いた。
そのこわばっていた顔が、勝千代の表情を覗き込んで若干安堵したように緩む。
こいつ、こんな顔もできるんだなと見返すと、はっとしたように唇を引き結んだ。
「動いてはなりません!」
身体を起こそうとすると、早口でそう言ったのは興津だ。
真っ青な顔で、こちらはまだ気もそぞろだ。
勝千代を気にしている場合か。見ろよ興津、御台様と御嫡男の危機だぞ。
要領よく口で説明できる気もしなかったので、無言のまま扇子でぽかりとその額を叩いた。いい加減押さえつけるのをやめてくれ。
彦次郎殿に介助を受けながら上半身を起こす。腹筋に力を入れると鋭い痛みが走る。だが触れた感じ傷は骨の上だ。臓器や重要な血管は無事だと思う。
座った状態で、彦次郎殿がなお傷口を押さえた。
押さえられると痛い。かなり痛い。だが、骨を折ったときほどの激痛ではない。
「渋沢」
それほどの距離もないので、既に渋沢は御台様に刀が届く位置にいた。
「そこまで」
いや、ギリギリだった。
高座の女官の何名か、反射的に動いた武官も何名か、見るも無残な有様で血祭りにあげられている。
女性だとか一応は同僚だとか、そんなことには斟酌しない、一片の容赦もない、逡巡もない、一刀急所を狙った太刀筋だった。
思い出したのは、全身黒づくめの武装をしていた武人としての渋沢だ。女性にまとわりつかれ困惑している印象が強すぎて、あの谷をも蹴鞠のように扱う奴だという認識がきれいさっぱり消えていた。
「刀を引け」
渋沢の太刀筋が誰かに似ていると思っていると、すぐにその当の本人が視界に入った。同じ流派なのかもしれない。
渋沢は刀を振り上げた姿勢で止まっていたが、谷は無表情のままなおも武官に切りつけようとしていた。
「谷!」
腹に力を込めると痛いんだよ。大声出させるなよ。
その声にビクリと震えたのは、谷ではなく、何故か御台様だった。
ひどい惨状だ。
充満する血の匂いと、そこかしこから聞こえるすすり泣く女性の声と。
勝千代はひどくなってくる眩暈を堪え、眉間にしわを寄せた。
状況を把握するべく周囲を見回すと、怯えたように視線を逸らされた。女性たちからだけではない、壁際から動かない武官たちもだ。
転がる死体。飛び散る鮮血。
無残な死にざまをさらす者たちを冷ややかに見下ろしているのは、武骨な男たち。
……え、もしかしてこれって勝千代が悪いのか?
一瞬そんな気がしなくもなかったが、すぐにそれを否定した。
どう考えても原因は御台様サイドだ。
仕置きという私刑で怪我人を出し、それを楽しんでいた様子の御台様と、諫めようとやってきた勝千代を刺した老女と。
こちらが過剰戦力だからといって、悪者だと思われたくない。
勝千代は立ち上がろうとしたが、さすがに無理だった。
こぼれた小さな呻き声にはっと振り返り、刀を下げたのは渋沢だ。
「……もういい」
男前渋沢の顔には鮮血が飛び、ほぼ黒の布地でもわかるほどぐっしょりと血を浴びている。見知らぬ他人なら絶対にお近づきにはなりたくない、なんとも陰惨でおどろおどろしい様だ。
だがその異様に整った立ち姿を、それもまた「アリ」だと言うようにうっとり見ている女性たち。
勝千代からは顔色を悪くして目を逸らすのに、渋沢には見惚れるとはどういうことか。
額を突き合わせて問い詰めてやりたい気持ちをぐっとこらえ、「下がれ」と命じた。
男は顔か。所詮は顔なのか。
内心そう思っているのは、勝千代だけではないだろう。
沢山の励ましの御言葉、ありがとうございます。皆様の貴重なご意見も有難く拝見しています。
痛む胃をさすりながら、長く暗いトンネルを歩いている気分でしたが、おかげさまで頑張れそうです。
これからも応援よろしくお願いします。




