46-5 駿府 今川館 北対2
衝撃は覆い隠したつもりだ。だが、上座の方から聞こえたさざ波のような含み笑いに、怒りの方は抑える事が出来なかった。
「……随分と手厳しい仕置きのようですね」
何とかそう言うと、更に笑う気配がした。
勝千代は、奈津殿の怪我の具合が気になって仕方がなかったが、強いてそちらは見ないようにした。
「御方様にお怪我は?」
片膝をついて、嗚咽を押し殺している美しい人の顔を覗き込むと、縋るように見つめられた。
線の細い、たおやかな美女だ。唇の下のところに目立つ黒子がある以外は、抜けるほどに肌の色が白い。
どこか、亡き奈津殿の姉君を思い起こさせる人だった。
「……お部屋にお戻りを。すぐに医者を向かわせます」
「な、奈津が」
勝千代は無言で頷いた。部屋の隅で控えていた役立たずどもに視線を投げると、彼ら自身も思うところがあったのだろう、跳ね上がるように立ち上がり、こちらに駆け寄ってくる。
「お待ち」
京訛りの苛立たし気な口調で止められたが、勝千代は躊躇う武官たちに「構わないから行け」と顎をしゃくった。
彼らの心情は、この場を去ることができるという安堵で満たされていたのだろう。勝千代同様、御台様の制止が聞こえなかったふりをして、もの凄い勢いで奈津ごと御方様を抱え上げ、遁走していった。
その足元に点々と伝っていく血痕に、怪我はかなりのもののようだと顔を顰める。
誰が切り付けたのかわからないが、ひどい事をする。
「待てと言うておろう!」
勝千代はそこではじめて上座に向き直り、一段高くなっている高座を見た。
片膝を立てた座り方の御台様と、公家風の装束を着た女官たちが、威圧的な表情でこちらを睨んでいる。
今気づいたが、御台様の隣には壁沿いの武官に負けず劣らず空気に徹した少年がいる。
間違いなく御嫡男上総介殿だが、こんなお顔立ちだっただろうか。
気弱そうだというわけではないのだが、先程まで血まみれの女官がいたにもかかわらず、その表情は作り物のように「無」だ。
これが近い将来今川家を背負う若き嗣子か。
気概のかけらも見せず、ただ母親の隣にじっと座っているだけの少年を見て、軽い失望と同時に呆れを覚える。
「仕置きですか」
目の前で行われた惨劇に、何も感じなかったのだろうか。母親を止めようとも思わなかったのだろうか。
「ずいぶんと容赦のない事をなさる」
「不忠者は死んで詫びればよいのや」
「忠義は命じてついてくるものではありませぬ」
「鬼子の分際で偉そうなことを言う」
何かが起こったときに、一方的にどちらかだけが悪いとは思わないようにしている。
自身の考えが、百パーセント正しいとも思わないようにしている。
ただ、己の息子よりも幼い子供相手に、初手から敵意しか向けて来ない御台様の、味方にはなりえない態度は受け入れがたい。
敵意には敵意が返ってくる。その程度がわからずして、座っていていい立場なのか?
「そのほう、不相応にも表で大きな顔をしているそうな。下克上でも企んでおるのか」
ずいぶん直接的な詰問だ。
勝千代は当たり前だが顔を顰め、首を横に振った。
「とんでもない」
「口では何とでも言えよう」
「あなた様がお望みのものを、誰もが皆欲しいと望んでいるわけではございません」
「……ほう?」
少々言い方を間違えたと思ったが、一度こぼれた言葉は元に戻らない。
御台様は明らかに怒りのボルテージを増し、ついには苛々と指先を齧り始めた。
「ならば早々に遠江に戻るがよい。以後はこちらでよきにはかろうておく故にの」
「そういう訳にも参りません」
勝千代は、理解しがたいわがままを言う御台様に向かって、任せられないからこうなっているのだと、はっきりと相手にわかるよう拒否の姿勢を示した。
そもそも御屋形様が不在の場合、御嫡男が動くべきではないのか?
いや、まだ幼少故というのだとしても、率先して立つ態度は周囲に見せておくべきだ。
何の行動も起こさず、母親の言うなりに大人しくしているそこの少年に、今のこの難所をしのぐ気概はあるのか?
「御屋形様に任された仕事に御座います」
その言葉に怒りもあらわに、更に投げる物を探している御台様。
だが勝千代は、ぎゅっと顔を顰め母親を横目で見た、血統的には自身の異母兄である少年の表情のほうが気になった。
油断していたつもりはもちろんない。
だが、上総介殿の反応に気を取られ、そちらに意識がそれていた。
「勝千代様!」
珍しい谷の大声。誰かにぶつかられる感覚。
至近距離で目が合うその瞬間まで、老女が小刀を持っていることに気づいていなかった。皆がそうだと思う。
痛みはなかった。それよりも、ぶつかられた衝撃の方をより強く感じた。
谷が数歩の距離を駆け寄ってきて、老女を蹴飛ばした。
「ぐあ」と悲鳴を上げて床に転がるその姿は、そこだけ見れば憐れを誘う風だったが、床に落ちた小刀がすべてを物語っている。
そこかしこで悲鳴が上がった。
勝千代は一秒置いて押し寄せてきた痛みに顔を顰めた。
渋沢が何かを叫んでいる。
聞こえないのは、女性たちの甲高い絶叫のせいだ。
恐る恐る見下ろしたわき腹には、大きな血の染み。
「あはははははは! やってやったわ! 天罰じゃ! 天罰じゃ!」
老女の狂ったような笑い声。
床に寝かされ、真っ青な渋沢に傷口を強く押さえられて。
それでも勝千代は冷静だった。
出血量ほどの深手ではないとわかっていたからだ。
相手が年老いた女性だったという事もある。勝千代が小柄な子供で、刃先の位置がずれたという事もある。何より大きな幸運は、着ていた直垂が分厚い上物だったという事だろう。
本来であればそれほど力がなくとも肉を裂き、骨を断つのだろう鋭い小刀は、勝千代の柔らかい腹部ではなく、肋骨に当たったのだ。
傷口を押さえる渋沢と視線が合い、お互いに目で意思を伝えあった。
青ざめていた顔が見る見るうちに引き締まり、「お任せを」という風に頷きを返される。
女性の悲鳴に、何事と広間に押し寄せてきた武官たちは、室内の様子を見て立ち尽くした。
奈津殿の流した血がまだ残っていたので、それも合わさると相当の負傷に見えたのだろう。
棒立ちの武官の間を縫って走ってくるのは、井伊の次男だ。興津もいた。
「猪武者どもめ、臭うてかなわぬ。誰の許しを得てここに入って……」
「申し上げます」
傷口を押さえるのを他の者に任せた渋沢が、すく、と立ち上がった。
下から見上げるその黒ずくめは、気のせいでなければ刀の柄に手を当てている。
急に不安になった。
意思疎通ができたと思っていたのだが……伝わっているよな?
フェミと書いてはまた不愉快な思いをさせてしまうのでしょうか。
作品に女性の登場が少なすぎ、もっと書くべきだというご意見をいただきました。
常々、もっと女性を出したいと思ってはいましたが、本作に登場する女性には苛烈な方が多く、強い女性といってもこういう権力志向の者たちばかりではない、とのご意見には同意いたします。
戦国時代から昭和の初期まで、とにかく女性の権利などが低い時代でした。
それは史実であり、意図して女性を低く見て書いているわけではありません。
こういう時代ですから、表に出てこない女性のほうが賢く、上手に立ち回っていたのだと思います。
御不快に思われた方々には、心からお詫び申し上げます。




