46-4 駿府 今川館 北対1
よし、聞かなかったことにしよう。……とはならなかった。
男前渋沢にじっと見つめられ、渋沢だけではなく周囲の男たちにも注視されて。
お前らいい年した大人だろう。なんでもかんでもお子様に頼るなよ!
思いっきり態度と表情でそう言ってやったが、空気を読むはずの日本人なのに皆でスルーしやがった。……覚えてろよ。
仕方がないので話を聞くことにした。
この場で話せと言いたい衝動が抑えきれず、実際そう言ってやろうと口を開きかけたが、渋沢の顔があまりにも懇願するようだったので、ため息をついて腰を浮かせた。
「少し席を外します。引き続き聞き取りをお願いします。何か重大なことが分かったときにはすぐに知らせてください」
勝千代の言葉に、文官たちは驚いたように背筋を伸ばした。
「……何があった」
ついでに厠に行こうと、歩きながらそう問うと、渋沢はなおも言い淀んだ。
すれ違う者もいないので、誰も聞いてはいない。それでも口ごもるという事は、よほど言いにくい話なのだろう。
「御台様がどうされた?」
「それが……」
「渋沢様! 若君様!」
北対に向かう回廊のところで、女官がひとりうろうろしながら待っていた。遠くからこちらを見つけて足早に近寄ってくる。
「雪殿」
勝千代より先に渋沢の名が出てくるあたり、相変わらずブレない態度の女官殿だが、お目当ての渋沢に会えた喜びに頬を紅潮させることもなく、ずいぶんと深刻な表情だ。
その白い嫋やかな手が渋沢の黒い着物の袖をつかもうとした。
すっと避けられて、それでもめげずに歩を詰める。
「お急ぎください!」
一体何が起こったのか、深刻な事態には違いないのに、二人のかみ合わない距離感が妙におかしい。
ずっと食い入るように渋沢を見ていた雪殿が、ようやく勝千代のほうにも視線を向けた。
「このままでは御方様が」
御方様がどこのどなた様で、御台様とどういうトラブルになっているのか、なんとなく空気でわかったというか、察したというか。
このまま大広間に戻ってもいいだろうか。
渋沢に目で問うと、伸びてきた手がぎゅっと勝千代の両肩に置かれた。
おい、盾にするな盾に。……仕方がない。腹をくくるか。
「……なにゆえに鬼子がここにおるのや」
勝千代を見るなり、ぱさり、と大きな扇子で顔の半分を覆うのは御台様。
大広間ほどではないが、広めの空間には目にも鮮やかな打掛姿の女性たち。
渋沢が入室してきたことに騒めきが起こり、次いで勝千代に気づいて大勢が息を飲んだ。
「無礼者。そのほうなど呼んではおらぬ。疾く去れ」
御台様が物憂げに手を振ると、部屋の隅の方で空気と化していた武官たちが途方に暮れた顔をした。
「何をしておる、そこな鬼子を放り出すのや!」
強烈な京訛りでそういうのは、見覚えのあるシワシワ白塗りの老女だ。
「礼儀のなっていない鬼子や。さすがは猪武者の子。躾が足りぬ」
老女は苛々とそう言い、やおら立ち上がってこちらに近づいてこようとした。
高座を降り、ずんずんと歩を詰めていく彼女の行く手を遮ったのは渋沢だ。
その厳しい顔つきを見て、老女は「あれ渋沢殿」と小声で呟いた。……お前もか。頬を染めるな頬を!
諦観の表情をしている渋沢の心情が、ほんの少しわかった気がした。
勝千代は一息ついた。
渋沢をうっとりと見上げている老女のことはどうでもいいが、問題は御台様の前で血まみれで転がっている女官と、彼女に守られて震えている女性だ。高価そうな打掛を身にまとっているから、御側室のひとりかもしれない。
改めて広間を見回す。居並ぶ女性陣は、おそらく御屋形様の御側室、あるいは側室ではないものの部屋を賜っている女性たちだろう。怯えたように母親の背後に座っている子供たちは皆幼少で、ほとんどが女児。泣きべそ顔を女官に抱きかかえられている子もいる。
あとは北対の女官たちだろうか。その後ろにいるのは女中か?
これだけ女性ばかりが並んでいると、圧倒されるというか……場違い感が半端ない。
その多くが青ざめ怯えた顔をしていたが、中には堂々と背筋を伸ばして座る女性もいた。
そのうちの筆頭が福島血統の松原殿だ。気絶はどうしたのかな。田所からの取り調べは? 実父が捕らわれ詮議を受けているのに、随分と気丈な態度だ。
「まあ、勝千代殿」
相変わらずの可愛らしい声色で、まるで親しい者でも見つけたかのように声を弾ませた。
「先程は御免なさいね。途中で気分が」
彼女の中でいいように完結しているのかもしれないが、それどころではないはずだ。
「父上様がどこにいらっしゃるか知らないかしら。誰に聞いても答えてくれないのよ」
勝千代はそれには答えず、もう一度長い息を吐いた。
これを収めろって?
渋沢が手に余ると助けを求める気持ちはわかるが、勝千代に振ってほしくなかった。
「このようなときに何の騒ぎでしょうか」
多少口調が険しくなってしまったのは、やむを得ないと思って欲しい。
「皆さま、今すぐお部屋にお戻りを」
可能なら、無理にでも部屋に戻らせたい。担いで連れて行かせるのでもいい。
もちろん女性相手、しかも御屋形様の奥方さま方に乱暴はできないので、ぐっとこらえる。
勝千代の強い口調に不快の表情を見せたのはごく一部だった。
ほとんどがほっと安堵の表情で、さっさと立ち去りたい風に腰を上げる。
だがしかし、飛んで来た扇子があわや勝千代を掠めそうな位置で床に落ち、その乾いた音で騒めきかけていた空気が静まり返った。
「勝手は許さぬ」
おっとりとした低めの声は、おどろおどろしく擦れていた。
おそらく部屋にいたほとんどの人間が、震え上がったと思う。
だが勝千代は、寝不足の上に仕事を邪魔された苛立ちが勝って、怯むどころか腹が立った。
「……すぐにものを投げる癖はお直しになられた方がよろしいのでは」
「なにを」
「お会いするたびにいつも何かを投げつけられますが、この顔がお気に召しませぬか」
間違ったことは言っていないぞ。物を投げるのは行儀が悪いと、誰からも教えてもらわなかったのだろうか。
来るとわかっていたら、なんということはない。
飛んで来た脇息は、楽々受け止めた。……渋沢が。
勝千代はちらりと男前を見下ろして、しっかりしろと目で叱責した。
女性が苦手なのはわかるが、逃げ回っているだけでは解決しないぞ。
「一応お伺いしておきましょうか。これは何の集まりでしょう」
今川館内の大々的監査の最中、甲斐が河東に攻め入り、富士川が氾濫した。やるべきことは山ほどある。山ほどあるのだ。
「一昨日の大雨で、殿や桃源院様をおいて逃げ出した不忠者どもへの仕置きじゃ!」
「御台様も避難なさいましたよね?」
「妾はよい、世継ぎの御命をお守りせねばならぬ」
己はよくて、他者を叱責するというのはどういう心理だ?
「そうですね。若君及び姫君の御命はお守りせねばなりません。御屋形様が動かせないので、なおのことです。ですから……」
「お側を離れ、己らのみ助かろうなど不忠の極みやないか!」
「許可を出したのはわたしですが」
勝千代は、内心の呆れを隠さずにはっきりと言った。
そして、床に転がっている血まみれの女中のもとへとすたすたと歩いた。
意識がないようだが、いまだしっかり主人を守るよう抱き込んでいる。
同じように床に倒れ込んだ女性が、縋るように勝千代を見上げた。
「奈津を、お奈津を」
その名を聞いて、ドクリと心臓が大きく鳴った。




