46-3 駿府 今川館 大広間2
川が氾濫したのは昨夜。駿府でももっとも雨量が多かったあたりか。
まずは被害の規模を調べるべく、朝比奈殿は三十どころではない物見の兵を送り出した。
すぐに戻ってくるはずもないので、そこから下手をすると数日の待ち時間になる。
いつまでたっても、この情報のタイムラグに慣れない。
だが文句を言っても始まらない。誰もが条件は同じだ。
その間に休むようにと言われたが、熟睡できるはずもなく、うとうとと寝たり起きたりの状態で物見兵が戻るのをひたすら待った。
続々と物見兵が戻り始めたのは半日後から。距離があったり、移動にままならない難所は更に数日待てとの事だ。
とんでもない。そんなに待てるか。
勝千代は今川館の大広間に、富士川付近の大きな地図を用意させ、広げた。
富士川と一概に言っても、巨大な扇状地なのだろう。上流から箒のように分流し、いくつかの川となって駿河湾に流れ込んでいる。
氾濫したのは「富士川」だというが、正確には「富士川水系」の複数の川だと思う。
扇状地があるということは、昔から水害が多い地域ということだ。
そこに住む者たちが水害に慣れているなら、難を逃れている者もいるかもしれないが、川が破れたのは真夜中だ、真っ暗の中だとよほど日ごろから心がけていないと避難するのは難しいかもしれない。
甚大な被害を覚悟しながら、ぽろぽろともたらされる報告を詳しく聞いて紙に書きとらせる。
リアルタイムではないが、きわめて現場の声に近い情報だ。
最初の頃はそれを地図に転記させていたが、丸一日も経たないうちに手狭になり、周囲に付箋のようにメモ書きが積み上げられていく。
重なっていく書き付けの量が、被害の多さだった。
一枚の紙には、村の名前と『生存者なし』の文字。一枚の紙には、田畑がすべて失われ、村の半数が避難できず死亡とある。
多くは一気に押し寄せた濁流にのみ込まれての溺死、あるいは流れてきた木材などによる圧死だが、勝千代が注目したのは『殺害』の報告の多さだ。
「多いですな」
顎をさする井伊殿、「この辺りが特に多いです」とコメントする逢坂老。
まだ川の西方面しか網羅出来てはいないが、おおよその事はわかってきたように思う。
富士川は東側に決壊したようで、富士山のふもとに向かって大きく被害を広げている。
被害が比較的軽微な上流方面、川が蛇行している部分から下流に水害が広がっている。
乱雑に書き付けが重なっているのではっきりとはわからないが、中流あたりから水没を免れた村々があって、そこから上流が災害死以外の被害が多い。
氾濫の被害とは別の……つまりは甲斐兵による乱取りが横行しているのだろう。
いや、一概に彼らばかりを悪人にするつもりはない。火事場泥棒ではないが、被災地で悪さをする者は他にもいるだろう。
だが現状、まとまった被害は甲斐の兵によるものが多く、物見の兵たちによると皆殺しの上に村の米を奪い、更にはその村を占有している者もいるという。
数的には、圧倒的に洪水による被災者の方が多い。
下流に流され、家々を失い、着の身着のまま放り出された者は大勢いる。
怪我人も多いだろう。腹も空くだろう。そんな弱い立場の者たちを守るべきが武士の本分のはずだ。
勝千代は、長い間逡巡した。
救える命を片っ端からすくい上げたい。だがそれをすれば、甲斐兵による被害が手を付けられないレベルになる。
勝千代は決断を迫られた。
たった八歳の子供にそれをさせるのか?
運命に一晩中でも悪態をついてやりたい。だがそんな時間的余裕はない。
「わかりました」
勝千代は地図を見下ろしたまま言った。
「やはり甲斐兵がかなり入り込んでいるようです。兵をまとめる余力が出る前に叩きましょう」
勝千代が指し示したのは、ひと際報告が多い地区だ。まずは被災地から甲斐兵を一掃するべきだろう。
それにしても……と、勝千代はもう一度地図を見下ろす。
富士氏の所領は丁度富士山と富士川に挟まれた当たり。つまり甲斐兵は富士山の西側の街道沿いに南下してきたのだ。
同時に河東方面にも攻め込んでいる? 本当に?
甲斐にそれだけの余力があるだろうか。
「駿河衆の消息は?」
「まだです」
そう答えたのは、報告書を書きつけていた文官のひとりだ。
がちゃがちゃ物々しい具足の音がした。
顔を上げると、朝比奈殿をはじめ見覚えのある複数の男たちが、完全装備の鎧兜で大広間に入ってきた。
視線が合って、全員が足を止めた。
胡坐をかくのではなく、片膝をついて礼を取る。
「……できるだけ急いでください」
勝千代は一瞬呼吸を止めてから、目が合った朝比奈殿に頷きを返した。
本音を言えば、挨拶にくるよりも早く出陣してほしい。
甲斐の兵はまとまっている者でも五十名ほどの集団だ。今はまだ点在しているが、そのうち合流してある程度の規模になるだろう。そうなる前に、叩いておきたいのだ。
「駿河軍に被害が出ているのかですが……」
富士川は、駿府から河東へ向かう途中にある。ここを出たタイミングから考えて、氾濫に遭遇した可能性は大いにあった。
「それについてはまだつかめていません。道中あるいは被災地で何かわかったら申し送りをしてください……ご武運を」
勝千代は広間を出ていく朝比奈殿たちを見送った。
ああ、スマホが欲しい。無線でもいい。GPSが欲しい。リアルタイムで状況が知りたい。
無い物ばかりを渇望して、愚痴が口を突きそうになる。
不意に、ひどく心細くなった。
重い責任が両肩にのしかかり、膝からがっくり崩れ落ちそうな気さえする。
だがここで折れるわけにはいかない。
誰も指示する者がいなければ、この災禍は乗り越えられない。
「勝千代様!」
遠ざかる朝比奈殿の背中をまだ見送っていた勝千代に、慌てた様子で声をかけてきたのは渋沢だ。
その、急くような口調にぎゅっと心臓が締め付けられる。
何があったと聞くのが嫌だった。聞きたくなかった。
現実は小説より奇なりという。
実際には、小説のように一辺倒に物事が進むわけではない。あらゆることが一度に複数起こり、そのどれもが緊急で……つまり、小説のようなパーフェクトな結末など不可能だということだ。
ハッピーエンドの小説が好きだった。皆で困難に立ち向かう映画をよく見た。そのどれもが二時間後にはエンドマークで締めくくられる。
だが現実に終わりは見えない。どこがゴールかわからない道を、それが正解かどうかもわからないのに、ひたすら走り続けなければならない。
「御台様が」
渋沢がそれだけ言って黙ったのは、周囲の緊張した視線を気にしてだろう。
勝千代はゆっくりと振り返り、常にも増して黒一色の男を見て。
この場から脱兎のごとく逃げ出したい欲求をぎりぎりで堪えた。




