45-5 駿府 今川館 本殿5
堂々と、周囲の視線などまったく気にせずに大広間に入ってきた朝比奈殿は、豪雨の中一キロほど移動していたはずなのに、なぜか全く濡れていなかった。
相変わらずの無表情、トレードマークのサラサラヘアは、折烏帽子に収納されていて今は見えない。
髪がないぶん、余計にその厳しい表情が露わになっていた。
もともと見栄えのする男だが、どう表現すればいいだろう、猛禽類のような? 鋭く厳しい顔は人を寄せ付けない。
大広間に足を踏み入れ、周囲からの縋るような眼差しを浴びつつも、その頑固な無表情は微塵も揺らがなかった。
すっすと滑らかな足さばきで大広間を横切ってくる。
先程逢坂老が座っていた位置よりは遠い位置で腰を下ろし、見惚れるほど隙のない所作で胡坐をかく。
この胡坐をかくという動作はなかなか曲者で、一度足を大きく崩すから、だぼだぼ小袴が不格好に暴れがちなのだ。大ぶりな袖の始末を含め、ここまでコンパクトで無駄のない動きに見せるのは難しい。
誰もがぼーっと朝比奈殿の洗練された所作を見ていた。
その大袖がぱっと背後に流され、両手をついて深い礼。
ピカっと空が光った。
あまりにもタイミングが良すぎて、続く落雷の音までもがまるで映画か舞台の効果音のようだった。
出来る男は魅せ方から違うな。勝千代は、そんな頓珍漢な事を考えながら、借り物の扇子をぎゅっと握った。
井伊殿もだが、すっかり小具足姿を見慣れてしまっていて、朝比奈殿のその恰好に違和感がある。
この時代、身なりでおおよその地位を表すものなので、それで言うと、大ぶりな模様の直垂烏帽子姿はかなりの重臣だという印だ。
そんな男が、地味色直垂の元服もまだの子供に向かって低く頭を垂れる。
これまで今回の監査に不服を隠せなかった者たちも、譜代の重臣が見せたそんな態度に、文字通り雷に打たれたように顔色を悪くした。
「……かなり降っていますね」
「はい」
どう会話を始めればいいのかわからず、まずは天気の話題から入った勝千代に、朝比奈殿は食い気味に返事をした。
「賤機山は如何ですか。問題がなければいいのですが」
「整備はされております。ですが」
新しい店子に不都合はないか聞いているみたいだな……そんな事を考えていると、朝比奈殿は二度ほど首を上下させ、言葉を続けた。
なんでも、雨の量が多すぎるのだそうだ。
この時代の建築物は木造だ。あらゆることに木材が使われ、需要は極めて高い。
大型トラックや重機などはもちろんないので、必要なものを必要な場所、つまりは近隣の山から用立てるのは珍しい事ではなく、駿府に近い賤機山はいわゆるハゲ山だった。
城としての用途からも見晴らしがよいほうがよく、需要と供給があわさって、ほぼすべての樹木を切り倒していると言ってもいい。
現代人の知識がある勝千代は、それが危険だと知っていた。
山の木がなくなれば土砂災害は増える。賤機山のように一本もないというのは、かなり危うい。
「湧き水に色がついたのですか?」
「はい」
とはいえこの時代の者たちも無防備なわけではない。切り倒した木は根を抜かずに置いておくとか、大雨の際に濁った水が湧いたら避難するとか、先人の知恵として理にかなった教訓を持っている。
賤機山は、平地の真ん中に細く張り出したような山だ。それほどの標高はなく、周囲に他の山が連なってあるわけでもない。土砂災害が起きたとしても、被害は限定的なものだろう。
駿府の町が近いので、近隣の者は気を付けたほうがいいかとは思う。
賤機山に入った朝比奈軍にしても、あらかじめ崖崩れなどが起きそうな場所から兵を引かせておけばよいだけだ。
勝千代は扇子を手で弄びながら、朝比奈殿がわざわざ報告してきたことに首を傾げた。
崖崩れや鉄砲水が起きるかもしれない可能性を、「この程度」だというつもりはない。しかし、まだ起こってもいない事を、現状の今川館に伝える理由が思い当たらない。
激しい雨の音がしている。
屋根を打ち付け、軒先から大量の水が流れ落ちている。
勝千代は、その滝のような流れに目を向けて、叡山での一夜を思い出していた。
いやいや、あれは井伊殿が……そこまで考えたところで、ふと、橋桁ごと落ちた三条大橋が頭に過った。あの橋が落ちたのは人が多すぎたからだが、その時はまだ、鴨川の水はそれほど多くはなかった。
だが問題の大雨の後、水かさは増し、同じ川とは思えない暴力的な姿の濁流と化していた。
……そうだ、雨が多いという事は、心配するべきなのは山だけではない。
「安倍川ですか」
ようやく思い至り、呟くと、朝比奈殿は真顔のまま頷いた。
「それほど水かさが増しているのですか?」
「部分的に溢れそうなところがあります」
ざわり、と大広間にざわめきが走った。
この時代にはまだ治水という考え方がない。いや、まったくないというわけではないが、国を挙げて護岸工事をする、ダムを造るなどという大規模な治水システムへの理解が育っていなかった。
大雨が降れば、河は溢れる。それは自然の摂理であり、人の手でなんとかなるものではない。そういう考えが主流なのだ。
勝千代はもう一度外を見た。
座っている位置からは遠いが、ざあざあと膨大の量の雨が今なお降り続けているのがわかる。
きっと、ハザードマップとか、河が決壊したときにどこまでが水に浸るとか、そんな統計を取っている者などいないのだろう。
「わかりました。まずは駿府の町衆にこのことを伝えてください」
夜になれば、ますます身動きがとれなくなる。その前に避難を始めさせたほうがいい。
「背負える程度の手荷物をまとめ、すぐに高台に逃げるようにと」
駿府は平野部にあるが、周辺に里山や丘がないわけではない。標高が五メートルでも違えば、生存の可能性は高まる。
「お、お待ちください! 我らも……」
この先の万が一を考えていた勝千代は、大広間の一角から聞こえた怯えたような声に顔を顰めた。
文官たちが顔を見合わせ、どこへ避難するべきかと口々に相談しあっている。
いい加減、失望させるのはやめて欲しい。
「もちろんこのままで」
勝千代の平淡な答えに、既にもう立ち上がりかけていた文官たちがこことぞとばかりに声を上げた。
「ですが川が破れたのであれば!」
「まだ破れておらぬ」
勝千代は丁寧を装うことすら忘れ、語気を荒げた。
「民より先に逃げ出す気か」
腹が立って仕方がなかった。
何のための政、何のための武士だ。一番に逃げ出すのなら、偉そうに身分をかさに着てふんぞり返るな。ノブレス・オブリージュ、高い社会的立場には義務が伴うのだ。
お前らは最後の最後だ。
そう言ってやりたかったが口にはしなかった。ただ、文官たちが軒並み顔色を悪くしたので、内心は伝わっていたと思う。
多方面に御心配、あるいは御不快な思いをさせて申し訳ございません。
何故DMでの問い合わせについて、ここで返答しているかについては、直接の返答は控えさせていただきたいと考えたからです。
大変心苦しいのですが、ご了承いただけると幸いです。




