44-6 駿府 今川館 番所前
春の天気は変わりやすい。
先程までは青天だったはずなのに、番所を出る頃には不穏な空の色になっていた。
分厚い雲が西の方から押し寄せ、まだ日は高いのに周囲は薄暗くなっている。
雨が降るのだろうか。
勝千代は空を見上げ、顔を顰めた。
「若」
逢坂老が腕を引いて軒先から引かせた。
同時に、さあああと軽い雨音がして、乾いていた石畳に黒い斑点がつき始める。
まだそれほど強い雨でもないのに、ゴロゴロと遠雷の音が聞こえた。
雨足が次第に強まっていき、妙に湿度の高い風が頬を撫でる。
「……嫌な予感がする」
「奇遇ですな、わしもです」
勝千代の言葉に同意したのは、井伊殿だった。
この男、番所の中にいる時からずっと、難しい顔を崩さない。
普段はぱっと見だけは当り障りなく気のいい男のふりをしているのに、ずっと深刻そうに眉間にしわを寄せたままだ。
「この手の予感を外したことがありませぬ」
説明しろと言われても首を傾げざるを得ない感覚だ。
だが勝千代も、井伊殿の言わんとすることに同意した。
血が落ちないよう更に念入りに丸められた筵が運ばれていく。
運んでいるのは朝比奈殿の配下の者で、五郎兵衛殿が心配そうにその隣を歩いている。
ひやりと肝が冷えた。
それは予感でもなんでもなく、目で見た感想だ。
歩いているその場所を危ういと感じた。
仮に今刺客が襲ってきたらどうなる? 五郎兵衛殿ごと切り付けられるのではないか?
勝千代が声をかける前に、下村も同じ事を考えたのだろう、五郎兵衛殿の腕に手を置き何かを言おうとした。
その、寸前。
谷が動いた。
周囲の誰よりも先んじて、刀を抜いていた。
鋼のぶつかり合う、背筋がゾッとするような音がした。それと同時に、どこか見えない場所で影供がつばぜり合いをしている気配。
ここまできてようやく、周囲の男たちが身構え警戒した。
だが、刺客の第一刀が届かなかった時点で襲撃は失敗だ。
特に、守る方も完全武装。今川館ではそちらの方が珍しいかもしれない。
普段は館の入り口のところで刀類は預ける。もし今が常時であれば危うかった。
肝を冷やし、命のやり取りに全身で身構え、大勢の刺客が足元に転がった状態で、勝千代は震えながら息を吐いた。
もはやこういう事には慣れ切っているので、恐怖をやり過ごすすべは学んだ。
故にこれは恐怖ではなく、怒りだ。
筵でくるんでいる葛山八郎殿は今川家の家臣だが、今川館内で襲撃に遭い殺されたとなれば、事は家内の事では収まらない。
北条家がどれぐらい八郎殿を重要視しているかはどうでもいい話だ。
間違いなく、両家の間に波風が立つ。
襲撃してきた何者かは、それをわかっていてやったのだろうか。
十分に理解していれば、刃物で切り付けるよりもっと穏便な、たとえば事故を装うなり病に似せた殺し方をするなり、やりようはいくらでもあるはずなのに。
「派手に行きましたな」
足元に転がる頭巾をかぶった襲撃者たちを見下ろして、井伊殿もまたため息をついた。
「引っ掻き回したいのでしょうかな」
北条家と今川家の間を? そんな事をしても小手先の利益にしかならない。
あるいは葛山家と今川家を? 河東の有力氏族である葛山家を揺さぶる材料にしようとしたのだろうか。
いや、今はそんな事を考えている場合ではない。
承菊が、駿河衆は完全に駿府から兵を引くと言ったことの意味が今になって重くのしかかってくる。
あの男が今回の襲撃を知っていたのかはさておき、こういう事態が起こった場合の責任はすべてこちらにかかってくる。
苛々と唇を噛んだ。
兵力三千もあれば、駿府に外敵を寄せ付けないことは可能だ。だがここで「何事もない」状況を保つのは難しいのかもしれない。
そして大きなことが起こってしまえば、戻って来た駿河衆に能力不足だと言われてしまうのか?
馬鹿馬鹿しい。
「御屋形様にお会いしてきます」
勝千代はそう言って、くるりと進行方向を変えた。
えっという表情をしたのは周囲の面々、井伊殿はやはり難しい顔をしていて、渋沢も逢坂老も反対したそうだった。
「それがよろしいでしょう」
そう言い切ったのは、朝比奈殿。
この場にいる者の中で唯一、譜代の忠臣として御屋形様に付き従ったことがある男だ。
「どこよりもお膝元が安全でしょう」
「いやそれはどうか。むしろ危ういのでは」
朝比奈殿は御屋形様の周辺が万全に守られているのだと信じているし、井伊殿は飛んで火にいる夏の虫を危惧している。
両方理解できるが、今回はそのどちらでもない。
「奥に渋沢の兵を入れます」
黒々とした直垂を身にまとった渋沢が、こわばった表情で勝千代を見つめた。
「井伊殿は今川館の周辺を、朝比奈殿は駿府から賤機山城までをお願いします」
賤機山城は今川館の詰め城で、そこまでの距離は一キロもない。目と鼻の先だ。
「これ以上不穏な動きはさせません。駿河衆が不在の間に綺麗に掃除を済ませてしまいましょう」
居ないのなら居ないでいい。残っている資料を総ざらいしてすべてを明らかにしてやる。
三浦の件も、八郎殿が「知ってしまった」事についても。
遠慮はしない。叔父を死へ追いやり、父の左目を奪ったたくらみのすべてを白日の下にさらすのだ。
勝千代は戸惑う大人たちを尻目に、次第に強まる雨の中、本来足を踏み入れる事を禁じられている奥殿へ向かってずかずかと進んだ。
見ていろよ承菊。駿府を空けたことを後悔させてやる。
ぎゅっと両手を握りしめ、怒りは美しい坊主頭へと集中砲火した。




