44-3 駿府 今川館7
待てと引き留められて素直に待つような男たちではない。
井伊殿も朝比奈殿も立ち上がり、すぐにも撤収しようとする素振りだったが、勝千代はその場から動かなかった。
そして勝千代が動かずにいれば、二人も足を止める。
「勝千代殿?」
いぶかしむように呼ばれて、高い位置にある二人の顔を見上げる。
勝千代はしばし思案して、それから結論を口にした。
「話を聞くだけは聞くべきです。戦況は知っておいたほうがいい」
「それはまあそうですが」
「後詰の必要が出た時に、すぐ対処できるようにしておかねばなりません」
勝千代の言葉の意味を真っ先に察したのは、やはり井伊殿だった。
「さようですな。万が一にもそのような事はないでしょうが、駿河衆だけで持ちこたえられねば、我らも出ねばなりますまい」
その丸顔に過った底意地の悪い表情を見て、駿河衆の幾人かが顔を顰め、庵原殿がカッと激怒で顔を赤くする。
いや、そこまで露骨に言わずとも。
だがまあ、言いたいことはその通り、要は駿河衆だけで頑張ってくれという事だ。
「そ、それは」
「心配には及ばぬ!」
おそらく「困る」とでも言おうとしたのだろう駿河衆の言葉を遮って、声を張ったのは庵原殿だ。
「はよう『御着替え』に戻られるがよい!」
「いや、聞いておられましたか。勝千代殿は戦況を知っておかねばと仰っておられる」
「子供に何ができる」
「さようでございますな、それでは後詰も不要という事で」
「……っ」
うまい、とは思わない。
絶好調の井伊殿にやらせると、正論故に言い返せないが、非常に腹が立つというジレンマに陥る。要所要所で言質をとろうとしてくるから、始末に負えないのだ。
庵原殿は「ぐぬぬぬぬ」と漫画の噴き出しのような呻き声を上げた。手にハンカチを持っていたら食いちぎりそうだ。
「双方とも落ち着かれよ」
どう仲裁しても井伊殿の煽りスキルが火を噴きそうで迷っていた勝千代に代わって、そう言ってくれたのは関口殿だった。
「我らもそのつもりで支度はしておりましたが、敵方の勢いが強すぎるのが現状です。……地図を」
「関口殿!」
「内密にしておく意味が分かり申さぬ。戦況を話すぐらいよかろう」
「子供に話してなんになる!」
関口殿の言い分はもっともだが、納得できない庵原殿がどうあっても勝千代をこの場から遠ざけようとしてくる。
そもそも、遠江は今川家の敵ではない。子供だという理由はさておき、同時に朝比奈殿らに去られるのは避けたいはずだが。
「聞かれて困る事でも?」
更に井伊殿が煽るものだから、庵原殿の顔色はどんどん形容しがたいものになってきた。
……血圧大丈夫か?
勝千代はふうとため息をついた。
「難しい事は脇に置いておきましょう」
庵原殿はキッとこちらを睨んできたが、もう一度ため息をついて首を振って気にするのはやめにした。きりがないからだ。
「甲斐を押し返す。そのために必要なものは何ですか」
「兵力ですな」
井伊殿には聞いていない。
だが、関口殿が同意するように頷いたので、そのまま言葉を続ける。
「国境すべてに万の兵を張りつかせるわけにはいきませんので、どこに兵を向かわせるかが勝負ですね」
「何を当たり前のことを!」
「動員できる数は?」
もういいよ、庵原殿。
いちいち取り合うのが面倒になって、露骨に無視して駿河衆を見回す。
「当家は二百ほど」
「三百以上は……」
もともと遠江衆が甲斐戦線に駆り出されていたのは、動かしやすいという以外に、駿河衆に比べて立場が弱いという理由もある。
だが同等に、河東の情勢が非常に不安定だったというのも、事情のひとつとしては存在した。接しているのは甲斐のほかには北条氏。同盟関係で結ばれた両国だが、伊豆が長く落ち着かない国情で、目を離すわけにもいかなかったのだ。
渋沢が丁寧に一礼して、勝千代の前に紙を広げた。
描かれているのは、かなりデフォルメされた駿河河東地区の地図だ。
富士川よりも東、伊豆、相模、甲斐との国境がわかる図になっている。
毎度思うのだが、幼稚園児が手本を見ながら描いたような地図はどうかと思う。だがこの時代の地図は大概こんなものだ。
「まとめれば二千ほどですか。武田はどこから攻め入りましたか?」
関口殿と、国境近くの領地を持つ者たちからの情報で、おおよその事態はわかってきた。
敵の主たる目的は河東の制圧だろうが、そんなに簡単にいくものではない。
だが例年であれば小手先調べ程度の進軍なのに、今年に限ってやけに気合を入れて攻め入ってきたのは、こちらの事情を熟知しているからだろう。
今川は五千、北条は二千もの兵を上洛につぎ込んだ。
そのぶん、手薄になると考えるのは当たり前のことだ。
「まずは補給をとめるのが効果的かと思いますが、いかが」
「あいつらは、補給を断とうが乱取りするだけです」
「兵糧のすべてをそれで賄うのですか?」
勝千代は顔を顰めた。庵原殿の「そんな事も知らぬのか?」という表情に苛立ったわけではなく、純粋に略奪が当然という風潮に不快感を抱いたのだ。
「それでは、奪う物がないようにするべきですね」
先に人、米などを撤退させておけばよい。
乱取りしながらの進軍だと進みも遅いだろうから、不可能ではないはずだ。
それこそ小石混じりの米俵でも積んでおけば、足止めになるのではないか。
渋沢が進軍方向と思われるルートに墨で線を引いていく。
黒い地図に黒い線を引いてもわかりにくいんだよ。朱はないのか朱は。
「奥まで踏み込まれるとやっかいですぞ」
井伊殿がしきりに顎をさすりながら言う。この男のこの仕草は、何か考えていることがある顔だ。
河東には城や砦が多い。これまではちょっとずつ奪い、奪い返しを繰り返してきた。
「更に奥まで踏み込ませ、帰れないよう退路を断てばよいのでは?」
「兵糧攻めですか」
井伊殿は、勝千代の言葉を受けてニイと口角をあげて笑った。
「一か所に押込め、一気に叩くと」
「失礼いたします」
不意に、もの凄く聞き覚えのある声が駿河衆の後方から聞こえた。
背中にぞわりと悪寒が走ったのは、即座に思い浮かんだ相手への警戒心からだ。
そうだ、この男は駿河の出だと言っていた。
「おお! 戻ったのか!」
油断していたわけではないが、庵原殿の唐突過ぎる大声にビクリとした。
「帰還の挨拶にまいりましたが、御取込みのご様子」
廊下までの開けた人の並びの向こうに、逆光でよく見えないがつるりと頭の丸い男の影。
「いやよいのだ、ここへ、ここへ参れ」
鉤鼻に険しい目つきの庵原殿が、こんなにもデレデレと相好を崩すのをはじめてみた。
「それでは、失礼いたします」
そう言って大広間に入ってきたのは、墨色の法衣に、逆光でなくなれば更に美しい形状がわかる頭部。
文句なく誰もの視線を奪う男前の僧形……九英承菊その人だった。




