44-2 駿府 今川館6
朝比奈殿はじろりと周囲を一周見回した。駿河衆のぎくりとした様子を見るに、相当よからぬことを言われたのだろう。
渋沢は真っ先に大広間の惨状に目を止めた。すでに男の死体は撤去されているが、飛び散った大量の血は残ったままだ。
その不穏さにさっと顔を青ざめさせ、忙しなく勝千代と鮮血のあととを交互に見た。
「お怪我を?!」
「いや」
誤解を受ける前に即座に否定したが、ずかずかと距離を詰められ、上から下までじっくりと観察された。
だから怪我なんてしてないって。
やがて納得したのか、ほっとした表情になったが、振り返って駿河衆を睨む目は、朝比奈殿に負けず劣らず険しかった。
「これはどういう事でしょうか」
「どういうことと言うても……」
渋沢とは顔見知りなのだろう男が、取りなすようにそう呟くが、かえって鋭い目つきで睨まれてタジタジと怯んだ。
ここでの出来事を何も知らない二人に、懇切丁寧に説明している暇はなかった。
済んでしまった惨劇よりも、急ぎの用がある。
事は一刻を争う。甲斐が……そこまで考えたところで、はた、と我に返った。
そもそも河東や国境から駿府まで早馬をとばしたとて丸一日は掛かる。こんなにも立て続けに急使が来るものか?
いや内容を吟味している暇はない。真偽はともかくとして、急いで動く必要があるのは確かだ。
そう、真偽。
勝千代はちらりと傍らの井伊殿を盗み見た。
視線が合って、その目が意味深に光るのを見た。だが次の瞬間見せたのは、気難し気な真顔だ。……おい。
「甲斐戦線に動きが。武田がまたぞろ暴れ始めたようにございます」
真顔で言うな。真顔で。
それを聞いた朝比奈殿が難しい表情のまま頷いた。
「すぐに軍議を」
さすが譜代の重臣、朝比奈殿は当たり前のように居並ぶ駿河衆たちにそう言い放った。
疑惑をそれとなく伝えることもできなかった。
井伊殿の「悪戯」に気づいたのには理由がある。
勝千代自身が、まったく同じ手を四年前に使ったからだ。父が詮議を受けた時、万が一の場合を考えて、ここから撤退する隙を作るためにフェイクの侵略情報を流させた。
だからこそ、これが本当の情報なのか偽物の情報なのか、あるいは真偽入り乱れているのか判断し難かった。
とはいえ、「また」と言っていたぐらいだから、甲斐からちょっかいを掛けられているのは間違いないのだろう。
ここ数年、春と秋の年に二度ほど、定期便ですかと問いたくなるほど兵を送り込んできている。今は丁度その時期なのだ。
わかっていただろうから、迎え撃つ準備はしていたはずだ。
「実際にどこまで攻め込まれているのか、よくわからぬ。おのおの方、まずは落ち着いて策を……」
「そんな事を言うている場合か! そちらの領地は国境から遠いが、わしらは」
軍議と言っても、本来は百人で集まってするようなものではない。
最初の数分はまだしも、次第にざわめきが大きくなってきて、しまいには口々に言い合いをはじめた。
こりゃあ駄目だ。
勝千代は難しい顔で腕組みをしている関口殿に目を向けた。
仕切るとすれば朝比奈殿ではなく、本来は駿河の譜代衆だが、まだ口を挟もうとしない。
情報がフェイクだと思っている? いや、動ける余地がないのかもしれない。
というのも、普段甲斐兵と対峙している福島はいない。朝比奈軍に頼ろうにも、先程揉めたところだし、何より兵は京からの長旅を終え帰還してきたばかりだ。
駿河衆でなんとかするしかないのは、随分前からわかっていたはず。
それなのに、今頃こんなところでグダグダやっている。ろくに対策すらできていないのかもしれない。
大丈夫なのか?
勝千代は再び腰に手を当てた。あるべきところに扇子がない。タバコか精神安定剤でも切らしたかのように苛々する。
「地図を」
うわの空だったので、思っている事がそのまま声に出てしまった。
はっと我に返って口を閉ざしたが時すでに遅し。百人すべてとは言わないが、大勢が厳しい顔をしてこちらを見ている。
「これは子供の御遊びではない。口を挟まないでいただきたい」
そう言ったのは、顔に似合わず神経質そうな口調の庵原殿だ。
庵原家にはちょっと思うところがある勝千代は、反射的に「は」と息を吐き出していた。
もちろん畏まっての返答ではない。
露骨にむっとした庵原殿が更に何か言おうとしたところで、ドン! と強く床を踏み鳴らす音がした。
びっくりした。
ひゅっと、聞こえるほどの音量で息を飲んだのは勝千代だけではない。
できれば皆に倣って飛び上がりたいところだったが、その音源が真横だったのでそうもいかなかった。
何事?! と首を巡らせた勝千代の心情を察してもらえるだろうか。
胡坐をかいて座っていた朝比奈殿が、片膝を立てていた。ついでを言えば、腕を膝の上に乗せて固く拳にしていた。
床板を踏み抜く勢いで足を突き、その振動がびりびりと尻まで伝わってくる。
「失礼」
朝比奈殿は、まったく失礼とは思っていない冷ややかな口ぶりで言った。
「羽虫がおりました」
広間は一瞬にして静まり返り、誰もが口を閉ざしてこちらを見ていた。
これが床ドンか。……いやいや怖いって!
「勝千代殿、我らは御邪魔のようです。下がらせていただきましょう」
非常に楽しそうな……もとい、沈痛な表情で井伊殿が言った。
「幸いにも朝比奈殿は放免の許しを得ておりますし。何より、御召し物を替えませぬと」
この状況で、堂々と一抜けたを宣言する度胸はすごい。
勝千代は呆れと感心とが入り混じった目で井伊殿を見上げた。
ここで去るわけにはいかないとか、そんな漫画の主人公的発言はしない。
そもそも子供である勝千代がこの場にいる状況のほうがおかしいのだ。
ひとつ頷いて、先に立ち上がったのは朝比奈殿だった。片膝を上げていたから早いというよりも、不愉快だから一刻も早くこの場を去りたいという風だ。
「……待たれよ」
「おお庵原殿。我らにはお構いなく。早う話を詰められた方が良い」
わざとらしくそんな事を言う井伊殿だが、この男が甲斐戦線に駆り出される可能性はまずない。そもそも遠江の国人衆であり、かなりグレーゾーンではあるが、今川家の家臣というわけではないからだ。
「どうかお待ちいただきたい」
むっつりと口を閉ざした庵原殿に代わって、引き留めにかかってきたのは関口殿だった。




