43-8 駿府 今川館4
「江坂のような口をきく」
底冷えのするような目が弧を描いた。とはいえ笑ったと断じるには低く、ひどく単調な声色だ。
この恐ろしく切れ味の鋭い凝視から逃れたくて、勝千代は頭から鮮血を浴びたまま平伏し続けている男たちへと視線を巡らせた。
「お勝」
「はい」
だが、呼ばれて返事をしないわけにもいかない。
視線を戻すには戻したが、すぐに後悔した。
「目を閉じておれ」
「御屋形様」
「あれでもそなたにとっての祖母だ」
囁かれた声は低く、その目は底冷えがするほどに冷たかった。
抜き身の刀が触れんばかりの至近距離にあるが、それよりも数倍恐ろしく、可能であれば本能的に脱兎のごとく逃げ出していただろう。
だが勝千代の足は張り付いたように動かなかった。いや、動けなかった。
小さな足音と、衣擦れの音。漂ってくる高雅な香。
「彦五郎殿」
さっと引かれる裾さばきの音の後から、たおやかな女性の声がした。
「御顔の色がすぐれぬ、早う横になられませ」
御屋形様をそのような通り名で呼ぶ者はほとんどいない。
ここまできてようやく、桃源院様=祖母という形式が頭でつながった。
勝千代はとっさに目の前の細い腕にしがみついた。
それでも、完全にその動きをとどめる事は出来なかった。
「……っ」
悲鳴は上がらなかった。少なくとも、桃源院様の口からは。
だが喘ぐように呼気が乱れ、胸元を押さえよろめく。
「御殿医!」
勝千代はそう声を張り上げると同時に、なおも振り下ろされようとしている腕に、今度は全体重をかけた。
ぐらり、と御屋形様のお身体が傾いだ。
「……何故じゃ」
誰もが腰を浮かせ、立ち上がろうとする最中、音を立てて倒れたのは桃源院様の方が先だった。
「彦五郎殿」
縋るように御屋形様を呼ぶ声が、次第に苦しげな呻き声になる。
傷は致命傷ではない。手当てを急げば間に合うかもしれない。
「後始末をしておかねば、後の者が困りますので」
焦る勝千代の耳に届いたのは、低い、まるで地の底から響いてくるような囁き声だった。
「お寂しくはありませぬ、叔父上がお待ちでしょう。私もすぐに……」
「何をしている! 早う!」
勝千代の叫び声に、凍り付いたようになっていたその場がようやく動き始めた。
バタバタと駆け寄ってくるのは、御屋形様付きの医者だ。近くに控えていたのは運が良かったというべきか。
カラン……
ざわめきが広がる中、木製の杖が床に倒れる音が妙に大きく聞こえた。
勝千代は御屋形様の腕に全体重をかけてしがみついていたが、既にその体勢は逆転していた。
もちろん小柄な子供ひとりで支え切れるはずはなく、介添えの付き人がさっと両脇から腕を伸ばす。
三人がかりで支えた御身体は、布越しにもわかるほどひんやりとしていて、目の前で崩れ落ちそうになっている御方が本当に生きている人間なのかわからなくなってきた。
さっとその顔を見上げて、迫ってくる顔の異様なほどの青白さに息を飲んだ。
さらりとその髪が頬に当たった。
次いで、勝千代の肩にずしりと重みがのしかかる。
痩せ衰えていたとしても、大人の頭の重みはかなりのものだ。介添え人がいなければ、支えきれずにその場で尻餅をついていただろう。
「何をしておる! そのものを捕えるのじゃ!」
遠い場所から、低い女性の叫び声が聞こえた。
「皆見ておったであろう! あの鬼子が我が殿と義母上様をっ!」
「御台様」
こんな時にややこしい事をと、両手がふさがったまま上座の方に視線を向けると、複数の者たちがこちらに近づこうとしていて、そのうちの一人がそう声を上げた。関口殿だ。
「今はそれどころではございませぬ。そのほうら、御台様と若君を奥へ」
「なっ、なにを」
「おのおの方、この場での事は外に漏れる事のないよう」
何もかもがあっという間の出来事で、勝千代が口を挟む余地はまったくなかった。
血まみれの床に呆然と立ち尽くし、御屋形様が大勢に抱えられるようにして運ばれていくのを見送るしかなかった。
これは……どうなるのだ? 朝比奈殿は。三浦の件は。
「……勝千代殿、すぐに移動したほうが」
傍らで井伊殿がそっと囁いた。
今や御屋形様もおらず、上座にはすでに御台様も若君の御姿もない。
勝千代はやけに視線を感じると思い顔を上げ、周囲を見回した。
視線を巡らせるたびに、サササッと顔を背けられる。
「勝千代殿」
誰もが勝千代たちを遠巻きにして、どう扱っていいのかわからない様子でいる中、そう声を掛けてきたのは関口殿ともう一人、武闘派寄りの葛山殿だ。
「そこはいささか汚れております故に、こちらへ」
そう言われて足元を見下ろし、さっと全身から血の気が引く。
まずい、どうしよう。
勝千代の足元は真っ赤に染まっていて、その中で奇跡的に血糊が散っていない場所に真っ白な扇子がひとつ。
汚れただろうか。いやその前に、御屋形様に思いっきり叩きつけてしまった。破損していないだろうか。
勝千代はすぐにも拾い上げたかったが、その両手は多少なりと血で汚れてしまっている。 真っ白なあの扇子にそんな手で触れるのは……。
一礼した逢坂老が、鎧の隠しの部分から手ぬぐいを取り出して、そっと回収してくれた。
「壊れていないか」
第一声が扇子の心配だ。見ている者たちはどう感じただろう。
だがその時の勝千代には周囲の目など気にしている余裕はなく、だから持ってくるのは嫌だったのだと、内心で寒月様に苦情を言っていた。




