41-8 北遠8
皆でこれからの方針を話し合っているうちに、日差しが西に傾き始めた。
強い西日が大広間に差し込み、一瞬、そのオレンジ色の光とかつての白一色の情景とが重なる。
この城は勝千代にとって良くない記憶の残る場所だ。しかし、その尾根の連なりや川と木々のありようが、強烈なまでの美しい情景として記憶に刻まれている地でもある。
大勢が死んだあの冬の日。血も涙もすべてが雪に埋め尽くされていた。
そして今は、視界を埋め尽くす夕日の眩さが、まるで血の色のようだと不吉な事を感じていた。
何故そんな事を考えてしまったのか。
不意に廊下に現れた忍び頭の、異様な気配を漂わせる立ち姿を見た瞬間に、それは何かの予感のようなものだったのだと気づいた。
美しい夕日が山肌を染める刻限。
逆光になってよく見えないが、段蔵が包みのようなものを両手に抱えて持っているのが見て取れた。
そこに意識を向けた瞬間、持っているのは人間の首だという事がはっきりと分かった。
込み上げてきたのは恐怖と吐き気と悪寒。
勝千代はぐっと奥歯を噛みしめて、こぼれそうになる叫び声を堪えた。
ここは大広間。周囲には遠江の国人領主たちが勢ぞろいしている。
たった数えで十歳の子供が泣き叫んでも誰も何も言わないだろうが、それでも、ここで取り乱すことはできなかった。
呼吸が乱れる。
瞬きすらできずに、目の奥が痛い。
段蔵が、抱えていた布の塊をそっと勝千代の前に置き、少し後ろに下がって平伏した。
誰も何一つ喋らなかった。
勝千代の側付きたちはもちろん、言葉を交わしたことのない他家の者まで、誰ひとりとして。
固まっている勝千代の傍らから、逢坂老が膝を進めた。
彼もまた真っ白な顔をしていたが、顔色以外のところに動揺は見られなかった。
勝千代は、包みに手を伸ばしたその皺深い手を止めさせた。
振り返ったその目の奥にある絶望の色を、きっと己の目も同じものを湛えているのだろうと思いながら見つめ返した。
立ち上がった勝千代の動きを止める者はいない。
ぺたぺたと素足が立てる音が妙に耳についた。
勝千代は、自身の指の震えを妙に冷静に見下ろしていた。
まるで現実感のない悪夢の中にいるようだ。
時間が止まったようなその数秒間、呼吸を止めて、震える細い指が布をめくるのを他人事のように見つめた。
ガンガンと頭が痛い。
震える唇を噛み、血の味が口の中に広がった。
死後数日の印首は変色し、生前の面影などまったくないグロテスクなものだった。
だが、その笑顔を覚えている。
不器用に微笑んでくれた笑顔を覚えている。
「……どこに」
勝千代の乾いた声に、段蔵は一瞬間をおいて、低く平伏したまま答えた。
「砦の側に埋葬されておりました。丁寧に小袖で包まれ、髷は落とされております故、御味方が敵に奪われぬよう埋めたものかと」
誠九郎叔父だった。
顎の長さでザンバラに切られているが髪があるし、顔に火傷の痕がないので間違いない。
父ではなかった。そう安堵した事への罪悪感と、例えようもない喪失感が同時に感情を埋め尽くす。
双子で張り合うように勝千代の頭を撫でてくれた、分厚い大きな手。
意外と喧嘩っ早く、いつも誰かと揉めていた情景。
そうだ、勝千代にヤマメを獲ってくれたこともあった。
思い出が去来する。豪快に笑う声が耳朶に今も残っている。
悲しみが非現実感を凌駕し、気づけば土で汚れた小袖ごと腕に掻き抱いていた。
「誠九郎叔父上で間違いない」
声は震えなかった。
布越しに伝わってくる、温もりのない、岩のような無機質的硬さ。
これが叔父だとは信じたくなかった。
だがその冷たさが、逃れようのない現実だと告げていた。
真っ先に動いたのは、やはり逢坂老だった。
丁寧に両手を前につき、段蔵と同じように深く深く頭を下げる。
次々と頭を下げていくのは、福島家の者たちばかりではない。
どこかでむせび泣く声がした。
勝千代の目からも涙が零れ落ちる寸前だったが、頑としてそれは堪えた。
抱きしめた叔父の首を、そっと撫でる。
必ず父も見つけ出すと、無言のまま誠九郎叔父に誓った。
この時代、戦死した者はその地に埋められ土に還る。
遺体はすぐに傷むので、故郷に持ち帰ることができるのはせいぜい遺髪と形見の刀ぐらいなものだ。
首だけを埋葬する事へも若干の抵抗があった。かといって、首から下を探してくれとも言えない。
勝千代は叔父の首が傷む前に荼毘に伏した。
せめて骨のひとかけらでも、高天神城に連れ帰りたかったのだ。
屈強だった叔父の小さな首は、小さな頭蓋骨となり、更に砕かれて小さな木箱に収まった。
切なくなるほどに、小さな遺骨の箱だった。
翌日から、動員できる者たち皆で埋められた死体を掘り起こし、ひとりひとり検分したが、父はいなかった。源九郎叔父も、二木などの父の側付きたちも見当たらなかった。
これだけ探して見つからないのは、生きているからか。むしろその逆で、誰も知らない場所で死んでしまったからこそ、見つけられないのか。
掘り起こした遺体からせめて遺髪だけでもと回収し、申し訳ないが彼らについてはひとりひとり土に埋葬しなおした。
絶望とうっすらと残る希望と。知らせを聞くだけの勝千代にとってもつらい半日だったが、それ以上に、身内を掘り起こした者たちにも苦しい作業だっただろう。
その夜、ひとり月を見上げる勝千代の背後には、何も言わずに逢坂老及び側付きたちが控えている。宿直の夜番ではなく、昼番の者たちもだ。
早く休めと言うべきなのに、言葉は出なかった。
ひんやりした廊下に座るその傍らには、誠九郎叔父の遺骨が納められた木箱と、杯になみなみと注がれた濁り酒。
もちろん勝千代が手に持っているのは、酒ではない。弥太郎特製の薬湯だ。
酒が飲める年齢になるまで生きていて欲しかったと、またツンと鼻の奥が痛んだ。
もう少し待ってください。父と源九郎叔父が戻ってきて一緒に酒を飲んでくれますよ……と、心の中でそう告げて、その晩はずっと眠れず空を見ていた。




