41-7 北遠7
口に詰め物をされ、赤黒い顔でウーウー唸っている三浦の伯父の顔面及び全身には、擦り傷打撲痕が無数にあった。
まあ、見ていたから原因はわかっている。
それよりも突っ込みたいのは、この場にいる誰もその下帯一枚姿を問題視していないということだ。
勝千代が知らないだけで、虜囚は裸にするのが定番なのか? 何か着せてやれと言うべきか、ここまで剥いたのに下帯だけ残している理由を聞くべきか。
……うん、たっぷり蓄えられた脂肪を鑑賞するだけで、そのあたりの事は黙っている事にしよう。腹が出過ぎだぞ中年。節制しないと病気になるぞ。
この男が長生きできるかについては、かなり微妙なところだが。
勝千代はパチリと扇子を閉じて、置物のように部屋の片隅に座っている天野殿を横目で見た。
その表情は無だ。完全なる無表情だ。つい数日前までの、気のいいオヤジさんはどこへ行った。
こういう男を怒らせるべきではないという典型だな。
「さて」
任せてくれと言った手前、無表情が怖いからと言って黙っているわけにもいかない。
勝千代は気を取り直して、無様な態で唸っている三浦の伯父を見下ろした。
「これで最後だ、何か言いたいことは?」
真っ赤な顔をして唸っていたその声がピタリとやんだ。
木田が去って行った方向を、血走った目で睨んでいた三浦伯父は、怯んだように勝千代を見上げた。
猿轡をされたままなおも何やら言おうとしたが、「ウーウー」と呻き声にしかならない。
「今さら何を言おうが、敵と通じて我が父を嵌めた事実は変わらぬ。誰からどう聞いたか知らぬが、父は御屋形様の信任厚い股肱の臣だ。三浦家はただでは済まぬ」
限界まで見開かれた三浦伯父の目は、血走っている。
必死で呻き、何度も激しく首を振っているが……「言いたいことはなさそうだな」「さようにございますな」勝千代と天野殿との重ね掛け攻撃にあえなく撃沈。しまいに滂沱の涙を流し始める。
下帯一枚のハゲデブ中年男……いやいかん。身体的な事をあげつらうのは良くないな。頭皮が寂しく横幅の大きないい年をした男? 長いがまあいい。
その「頭皮が寂しく横幅の大きないい年をした男」が全身を震わせ、くぐもった声でむせび泣き始めた。膝でずりずりと勝千代の方まで這い寄ろうとして、南に下帯の後ろを掴まれみっともなく顔から転ぶ。
額を強烈に木の床にぶつけ、ドコッと非常に痛そうな音がした。
いやぶつけたのは額だけじゃない。勢いよく上げられた顔は、ぼたぼたと噴き出した鼻血で一気に真っ赤になった。
それでもなお滂沱の涙を流しながら這い寄ろうとし、必死に首を左右に振っている。
勝千代は無様に泣きわめく三浦伯父を見下ろして、コテリと首を傾けた。
「なんだ、まだ話したいことがあるのか?」
激しく上下に首が降られ、涙と鼻血があちこちに飛び散る。
こういう時代だから、皆流血に慣れているが、勝千代の目にはひどい汚物に映った。浅くても感染症の知識があれば、誰でもそうなると思う。
とっさに血しぶきが当たらないよう身を引いていて、それが三浦伯父の目には拒絶に見えたのだろう。
その目に再び大量の涙があふれ、鼻血と混じってもの凄い惨状になった。やがて逆流した血が喉の方まで行ったのか、咽て猿轡の端からも血が噴き出す。
大丈夫かおい。窒息するんじゃないか。
勝千代の不安をよそに、南が慣れた風にその猿轡を下に向けて引っ張った。
三浦伯父は喉をこちらに剥き出しにする形で仰け反り……気道を確保したのだろうか、やがてはっはっと肩で息をするさまが見て取れほっとする。
やれやれ。
ここですべてを吐き出させるつもりでいたのだが、今はそれ所ではないようだ。
ちなみにあとで聞いた話だが、三浦伯父がほとんど裸だったのは、この止まらない鼻血が理由らしい。
これだけ肥えているのだから、きっと高血圧とか糖尿でもあるのだろう。
夕刻になって原家の兵の半数が戻って来た。
砦は取り戻し、久野殿が二つを、残りのひとつを原家の半数の兵が占拠したのだそうだ。
こちらの被害は些少。敵の伊那衆は国境の向こう側まで押し返したそうだ。
一縷の望みを掛けていたのだが、砦の中に父が捕らわれているということもなかった。
あの父だから、砦如きに捕らわれているなど想像もつかなかったが、自身や周囲が負傷しているならその可能性もあり得たのだ。
「国境を越えた可能性は?」
勝千代の問いに、戻って来た久野殿が渋い表情をした。
何か事情があってそういう事になるのもありえなくはないが、そこまで手を広げて探すことは、今川軍としては難しいのだ。
「それを口実ととられ、侵攻よと騒がれるやも」
そうなった場合、信濃との戦になる。
信濃の国の守護は一応……小笠原氏か? だが今の信濃は複数の勢力が拮抗している状態で、大きな信濃の国を完全支配しているとはいえない。
「口を利いて探させてもらう事はできませんか?」
「無理でしょうな。浅羽殿の件もございますし」
南遠江の浅羽殿と、信濃に何か関係があるのか?
浅羽殿は南遠江に所領を持つが、それも御屋形様の時代になってからだというのは聞いたことがある。
馬伏塚城は高天神城のご近所さんなので、今回の事が起こった時に、志郎衛門叔父が真っ先に協力を要請しに出向いた先のひとつだが、現在当主が長患いで臥せっているからと兵糧のみでの協力だった。
大人たちは互いに顔を見合わせ、誰が言うかで揉める気配がしたが、勝千代が軽く首を傾けると、代表して久野殿が咳払いをした。
「浅羽殿は、もとは小笠原家の嫡男です」
ぎゅっと眉間にしわが寄る。信濃守護の嫡男が遠江にいたのか? こちらもややこしい御家騒動の匂いしかしないな。
「今回の北征に参加なさらなかったのも、その関係で余計な戦端が開くのを危惧されたからでしょう」
なんでも、利発な次男を愛した父親が、浅羽殿を廃しそちらを嫡男に挿げ替えたらしい。
確かにいつも青白い顔をしていたような気もするが、廃嫡されなければならないほど病弱なようには見えなかった。
小笠原氏は、浅羽殿の母系が気に入らなかったようだ。甲斐武田の血を引いているからだとか。……望んで迎えた政略婚の相手だろうに。
理知的で穏やかな喋り方をする隣人の顔を思い出し、複雑な気持ちがこみあげてきた。
最近大量の感想を頂いております。
有難いのですが、数日用事で家にいないと返信がたまりすぎ滞ってしまいます。
出来る限り、でご容赦ください。




