40-2 遠江 高天神城2
ひんやりとした床に両手をつき、深く頭を下げる。
そっと障子を閉める最後の瞬間、目を閉じて俯く寒月様の御姿を垣間見た。
しばらく外してくれと言われたが、長くおひとりにしておくのは心配だ。
廊下にうずくまった馴染みの侍従殿がいて、その真っ赤になった目からもそっと視線を逸らせた。
誰にだって、受け入れ飲み込む時間は必要だ。
「勝千代殿」
志郎衛門叔父が、別棟へ続く廊下の方で待っていた。
勝千代は頷き、もう一度寒月様のいらっしゃる部屋を見てからそちらに向かう。
おそらく、叔父はあらかたの事を知っているだろう。
勝千代が寒月様と話している間に、逢坂老らからも聞いただろうし。
ただ、京での一連の出来事についてどう感じたのか、この先どう対応するつもりだとかは、きちんと話をしておかなければならない。
立ち話でできる内容ではないので、導かれるままに本丸の方へと向かう。
まだ肌寒い春先、父と最後に挨拶をした場所が見えてくると、改めてその不在を感じてぎゅっと胸が詰まった。
福島家の兵の多くを率い国境へ向かった父は、叔父が知っているだけで三度小競り合いに遭遇したという。幸いにも押し返したそうだが、楽ではない戦いだったろう。
遠江という広い地域をカバーするにはあまりにも寡兵なのだ。真っ先に手を付けるべきは援軍の手配だ。
深刻な面持ちで廊下を進んでいると、どっと笑う声が聞こえてきた。
ちょっとどころではないほど驚いて、思わず足が止まる。
叔父は気にせずどんどんと先へ進み、振り返って勝千代を見下ろした。
「そんな顔をなさらず、皆には笑って見せねばなりません」
そういう叔父自身、眉間にはくっきりと深いクレバスのような皺が寄っている。
勝千代はまじまじと叔父の顔を見上げて、「そうですね」と一息ついた。
不安は顔に出してはいけない。
常に無表情な朝比奈殿や、どっしりと構えた井伊殿を思い出しながら気を引き締める。
叔父に先導され勝千代が姿を見せると、廊下に控えていた若いのが「お成りでございます」とよく通る声で言った。
志郎衛門叔父が板間の部屋に踏み込み、さっと周囲を見回してから勝千代を振り返った。作法に厳しい叔父なので、間違った行動をしているとは思わないのだが、一目散に序列が下のほうの位置に座るのはどうかと思う。
勝千代は続いて部屋に入り、残る二つ空いている席の内のひとつに向かった。
最上座は父の場所だ。
勝千代が胡坐をかいて座る前から、談笑していた者たちが真顔になって頭を下げている。
何を話していたんだと、問い詰めたいのは我慢した。
悪口を言われていたとか、嘲笑されていたとか、そんな事を思っているわけではもちろんない。しかし、寒月様の沈痛な面持ちを見てきただけに、笑っている場合ではないのにと思ってしまう。
叔父の強い凝視を受けて、勝千代は息を吸って吐いた。
笑顔ね。笑顔。
内心の鬱々とした感情を押し殺し、にっこりと微笑む。
「皆には心配をかけたな」
「いえ、ようご無事でお戻りなさいました」
城代の禿げ頭……もとい、中村が一同を代表して言った。
「土産話はたくさんあるが、それよりも急ぎ対処せねばならぬことがある」
「はい、殿への増援ですな。お戻り頂けてようございました。これ以上は厳しいと興津様に相談していたところです」
「こちらも対三河の監視が必要なので、兵を出すのは厳しく、どうしたものかと話し合っておりました。国人衆が帰国してくれてよかったです」
志郎衛門叔父よりは上座に座っているが、身分が上の客人というには馴染みすぎ、立派な衣装なのにうちの家人に埋没しきっていた興津が軽く手を上げ振った。
勝千代は、なんで下座、なんで頭を下げると興津に対して苦情を言いたいのをぐっと我慢した。
四年も前からずっとこういう態度で、何度言っても改まらないのだ。
「とりあえず北部の方々に書簡を出します。朝比奈殿にも相談したいですね」
「いつ頃掛川にお戻りでしょうか」
城代は不安そうにそう言って、見事な引き際を見せている頭部をつるりとさすった。
この男はくたびれた中年に見えて、ゴリゴリの武官だ。前線勤めが長すぎて、管理職系にはいまだ慣れないとよく愚痴を言っている。
だが前線経験が長いだけに、今の父の苦境がよくわかっているのだろう。
「わからぬが、領主方のほとんどはお戻りだ。今川館からの許可を待たずとも兵は出せるだろう」
何しろ国境の防衛だから、兵を動かすのも事後報告でよい。
しかし城代は安心するどころか、むしろ不安そうな、思わしくない表情のまま眉を垂らした。
「それが、最近は今川館の言い分が厳しいのです」
「厳しい? よもや国境に増援は送るなと?」
「そうは申しませぬが、殿であれば必要なかろうというようなことを……」
勝千代はとっさに表情を取り繕う事が出来ず、顔を顰めた。
それって、遠江から一気に五千もの兵を上洛させたから、物理的に増援兵が用意できなくなっただけじゃないのか?
興津がゴホンと咳払いをして、「こちらからも口添えいたしましょう」と取りなした。
フレンドリーかつへりくだって見せているが、この男は福島家の臣下ではない。もともと今川館で馬廻り役を務めていたし、興津家は派閥としては駿河衆なのだ。
勝千代が渋い感情を飲み込み、その丸顔に目をやると、興津は何か言いたいことがあるが言えないような、ひどく複雑そうな表情をしていた。




