40-1 遠江 高天神城1
春とはいえ雲ひとつない快晴の日差しは強く、汗ばむ陽気だった。
勝千代は遠くに見えるその景色に、「ああ」と小さく声をこぼした。
穏やかな風情の山並み、鳥の声や空気の色にまで強く懐かしいと感じる。
ようやく帰ってきたのだ。
高天神城は、まったく何も変わらぬ姿で勝千代の帰還を待っていた。
「叔父上!」
馬上から声を上げて手を振る。
小さく見えるその姿が、大きく手を振り返してくれる。
残念ながらそこに父の姿はない。
父は信濃国境にいるそうだ。やはり遠江の国人衆が不在だとちょっかいをかける所もあったようで、父だけではなく双子の叔父たちも出払っている。
遠くに見えているのは志郎衛門叔父だろう。文官職のあの叔父だけが高天神城に残り、掛川までの一帯に目を光らせていたと聞いている。
「なんだか安心する」
「そうですね」
勝千代の言葉に同意するのは、今日の同乗係の土井だ。
この旅の間に集中して乗馬の訓練を受けたので、勝千代の乗馬の腕はかなり上達したが、まだ単独乗りは許されていない。そのあたり逢坂の目はかなり厳しい。
近づくにつれ、叔父の隣に意外な人物がいるのに気づいた。
城の大手門の前に居並ぶ者たちとは、明らかに身なりが違う。
容姿が判別できる距離まで近づくと、それは曳馬城の城主興津だとわかった。
興津がここにいるという事は、三河方面は平穏無事だったのか。
思い出すのは松平の祖父と孫の顔だ。
あちらは内々での揉め事のために、外向きに目が向いていないのかもしれない。
そもそも三河には今川家のような強い国主が居ないので、国内での諍いのほうが多いのだ。
「ようご無事で」
真っ先にそう口をひらいたのは興津だった。
勝千代の身内は志郎衛門叔父だが、勝千代含めこの場での最上位者は興津なので、彼が口蓋をきるのは順当だ。
「お久しぶりです。ご健勝そうですね」
馬の手綱が引かれ、一同の足が止まった。勝千代はさっと下馬してにこりと興津に微笑みかけた。かなり訓練したので、手伝ってもらわずとも下馬できるのだ。
「色々と土産話がありますよ」
「お伺いしております」
少し引っかかる応答だったが、気にせずに続ける。
「こちらは如何でしたか? お変わりなく?」
「……いろいろとありましたが、おおむねは」
含みのある言い方だな。
ともあれ、こんなところで長話をするわけにもいかないので、城に入ることになった。
勝千代らを出迎える為か、すでに全開まで開けられた大きな扉の向こう側には、城中の者たちが大勢集まって来ていた。
高天神城は小さな山城だが、城門の内側にも居住区があるので、住人はそれなりに多い。
「寒月様がいらしておられます」
勝千代の帰還にわっと歓声があがっていたので、叔父のその言葉ははっきりとは聞き取れなかった。
だが繰り返してくれてなんとか理解して、興津よりそちらが先かと表情を改める。
「ずっとお待ちだったのですか?」
土方の町に長期滞在している寒月様は、普段からフットワーク軽くあちこちに出歩く。
土方を拠点にして、掛川どころか駿河、もっと足を延ばして伊勢まで行くこともあるようだ。故に高天神城にいらっしゃることも珍しくはないのだが……。
「ご無事な御姿をご覧になられたいのでは」
そう言った叔父の顔を見上げて、土産話の多くが、公言できない類のものだという事に思い至った。
そうだ、公式には発表されていないが、寒月様が主と仰ぐ御方は身罷られたのだ。その話は避けては通れないだろう。
「……京はひどい有様でした」
歩きながら、多くは語らずそれだけを告げる。
話をするにしても、こんなところで気軽にできる内容ではない。
皆でぞろぞろ階段を上り、広間のある曲輪にたどり着くまでには半刻ほどかかった。
大勢が勝千代たちを出迎えようと詰め掛けていて、彼らの嬉しそうな表情を無碍には出来なかったともいう。
嫡男の無事な帰還を見せるのも、大事な仕事だ。
「父上はどうされていますか」
「かなり苛立っておられました」
京からの知らせがことごとく不穏なものなので、心配をかけたのだろう。
志郎衛門叔父の心から安堵した風の表情を見上げ、この叔父にも心労をかけたのだろうと申し訳なくなった。
勝千代は京に書の指導を受けに行ったのだ。
あの時期、あのタイミングで「たまたま」起こった出来事は、意図したものではもちろんない。
だがそう思ってくれる者がどれだけいるか。
何にでも難癖をつけたがる今川館の連中の事を思い出し、憂鬱な気分になる。
そういえば朝比奈殿や井伊殿はそろそろ駿府に到着しただろうか。厄介な事態になっていないだろうか。
皆で十分に話し合っておいたので、口裏を合わせるではないが、揚げ足をとられるような問題はないと思う。だが今川館にいる連中は、重箱の隅をつっつくように難癖をつけてくる連中なのだ。
「戻ったか」
ふと、なんだか耳に慣れてしまった京訛りが聞こえた。こちらをじっと見ている寒月様の御顔を見て、つい安堵の息がこぼれてしまう。
うまく片付けたことも、後手に回ってしまったことも、色々と大変だったという総括になってどっと疲労感に見舞われた。
「お話せねばならないことがあります」
作法的には、きちんと帰還の挨拶をするべきだったのだろう。
だが寒月様は何もおっしゃらず、ただ重々しく頷いた。
 





 
  
 