3-6 上京 一条邸6
勝千代を見た瞬間、控えの間で待っていた側付きたちの顔色が変わる。
さすがにこの場で叫び出しはしなかったが、付いてきてくれた土居侍従が身構えるほどには殺気立っていた。
「……何が」
真っ先に詰問調の声を上げたのは土井だ。
この男にしては声量を抑え、辛抱した問いかけだった。
一条邸ということで、勝千代の側付き、護衛が立ち入ることが出来たのは控えの間まで。
普通の武家の客の付き添いならば、中門かその門前で待機させられるそうだから、十分に配慮してくださっていたと思う。
一条邸は他の困窮している公家とは違い、家人も大勢いるので、何ら危険な事はないだろうと、勝千代自身油断していた。
よもや、他人の顔をけりつけるような乱暴者の子供が出没するとは、当の権中納言様とて想像もしていなかっただろう。
「失礼いたします」
不意に、これまでは絶対に室内にいなかった弥太郎の声がして、皆がどう口を開こうか逡巡している間に側まで近づいて来た。
「お口の中を拝見させて頂けますか」
さっき散々ご老人たちにつつきまわされた後だったし、隣に土居殿がいたので苦笑してかぶりを振る。
後で。
そう目で告げると、弥太郎にしては露骨に不服そうな表情になった。この男が不満の表情をしても、役人の機嫌が悪くなった程度にしか見えないのだが、土居殿は何故かそちらに注視している。
「松田殿が来ていてね」
その松田殿と吉祥殿の付き添いも、同じ控えの間の別室にいるはずなので、こっそり小声で説明する。
「厄介なことになりそうだから、宿は引き払ってきてほしい。権中納言様が離れをお貸しくださるそうだ」
思えば、御父上の寒月様にも屋敷の離れを貸していただき、面倒を掛けた。
親子二代にわたって、大変なご厚意と言える。
「逢坂様にこのことは?」
逢坂老は京と堺の中間地点ぐらいのところにいる。何かあった場合に駆けつける為だというが、逢坂の兵といえば騎馬隊であり、そんな事をすれば大問題になってしまう。
「黙っておくことは……」
「できません。後で殿にお叱りを受けてしまいます」
普段はにこやかな三浦が、奇妙に強張った表情で言った。
この男なら、同じく控えの間にいる連中の素性を調べただろう。そして、問題を起こしたのが誰か、あたりをつけたはずだ。
ちらりと頭の片隅に、怒り心頭の父が突撃してくる様を想像してしまった。
遠江とは距離があるので、このことが知られる前には帰路につけると思う。
逢坂老についてはやむを得ない。それが彼の仕事だ。
ため息をつくと顎が痛い。
「来るなら五名以下でと伝えよ」
仕方がないが、呼び寄せて宥めるしかない。
これで福島家は総勢三十名近くになる。結構目立つ数だが大丈夫だろうか。
「それから、日向屋を呼べ」
日向屋、という言葉に反応したのは弥太郎だ。
佐吉を呼ぶわけじゃないぞ。宿を引き払うことになるから話を通しておく必要があるし、一条邸であと一週間も世話になるなら、相応の手土産とか謝礼とか必要だろう。その支度だ。
日向屋本人は堺にいるだろうが、ここ京にも店はある。
……自動的に佐吉が来そうだけどな。
土居侍従は十分な配慮をし、例の主従とその関係者とは顔を合わせないようにしてくれた。
苦情を言っている松田殿と、怒鳴っている子供の声が聞こえているから、状況は手に取るようにわかる。
ずいぶん冷たい対応だな。一条家。
現職の公方とは微妙な仲のようだが、弟だぞ。
すぐに土居殿が耳打ちしてくれて、弟といっても実弟ではなく、義理の兄弟なのだと聞かされた。
それで何故あれほど威張り散らせるのかというと、先代か先々代かの公方の実子らしい。
今の将軍家って嫡流じゃないのか? だから吉祥殿は自分こそがと考えているのか?
そのあたりの事は、公然の秘密のようなものなのかもしれない。土居殿は詳しそうだから、あとで聞いてみよう。
「こちらをお使いください」
そう言って案内されたのは、屋敷の東側の奥にある離れのひと棟だ。正門とは真逆の方向で、気のせいでなければ北奥にも近い。
そこまで格式ある感じではないが、そもそも一条邸全体がかなり豪華で洗練された誂えなので、一介の武士に棟貸しするには良すぎる部屋と言わざるを得ない。
邸内はかなり広大だ。白塗りの塀の外は焼け野原に近いのに、その外壁も含め美しい景観を保っている。御所を焼け出された帝が、時折御渡りなさるそうで、そのために修繕を許された家のうちのひとつだとか。
更なる付け火の被害にあわないよう、警備は厳重で、福島家からの武士が三十人増えようが全く問題ないらしい。
急にそれだけの人数増えても大丈夫だとか、学校いや大学の学舎並みの広大さだ。
「しばらくお世話になります」
頭を下げると、普段は表情の少ない土居殿の眦にしわが寄った。
「こちらこそ、御迷惑をおかけしました」
やんちゃすぎるお子様を思い出して、顔が渋くなってしまう。
気がかりなのが、姫様を見ていたあの表情だ。普通の若い男女間であれば微笑ましくも感じただろうが、姫君の方には婚約者がいるし、そもそもそういう気持ちはないだろう。
吉祥殿が素直に引き下がるだろうか。
これ以上一条家に問題が起きなければいいのだが。
「この棟には小さくはありますが賄い方の設備も御座います。湯などはそちらでご用意いただけます。御配下の方々のお食事も、当家と同じものでよろしければご用意できます」
「重ね重ね申し訳ございません」
「勝千代殿」
再び礼を言おうとしたが止められた。
「わたしに頭を下げる必要はございませんよ。なんでもお申し付けください」
だが土居殿は年齢がかなり上だし、おそらくは身分もそれなりにある。
首を傾け迷っていると、そっと肩に肉厚の手を乗せられた。
「今日はまこと大変な目に遭われましたな。ごゆっくりなさってください」
そこで初めて、己がかなり気を張っていたことに気づいた。
気づいてしまえば、身体のあちらこちらが痛んでくる。
特に、折れた歯が痛む。
土居殿が目配せをせずとも、勝千代の不調には慣れている面々はすでに動き出していて、「おいお前ら、よその家なんだぞ」と注意したいほどテキパキと、寝間の支度をはじめていた。




