1-2 下京 宿
宿に戻るまで何事もなかった。
とはいっても、後をつけられていることに変わりはない。
誰だ? 心当たりが多すぎる。
最近は風魔忍びが減ってきて、伊賀者が増えてきた。甲斐方面ではないかというのが段蔵の見立てだ。
甲斐と言えば武田。どうして武田が勝千代の事を調べるのだろう。
誰に聞いても二度見され、呆れたような顔をする。
このところずっと大人しくしているのに、おかしな話だ。
「お帰りなさいませ」
宿に付くと、まるで家人であるかのようにニコニコ笑顔で迎えてくれたのは、日向屋の番頭頭佐吉だった。
その相変わらずの地味顔を見て、勝千代の眉間にしわが寄り、唇がへの字に曲がる。
「おや、何かございましたか?」
日向屋の伝手で取った宿なので、この男が勝千代の滞在を知っていてもおかしくはない。
だがしかし、状況が状況だけに、佐吉がここにいる事が偶然だとは思えなかった。
「……そのほうか?」
佐吉は胡散臭い笑顔のまま小首を傾げる。
確実に何かを知っている風だが、衆目の中では話せないのだろう。
勝千代はかぶりを振って、濯ぎの水をもって近づいてきた弥太郎の前で上がり框に腰を下ろした。
「あるじより手土産を預かっております。先だっては結構なものを頂戴いたしまして」
「ああ、跡取りが出来て良かったな」
日向屋の愛娘が男子を生んだ。寒月様の御屋敷で突っかかってきた轟介ではなく、幼馴染の手代と夫婦になったらしい。
そうやっていい知らせを聞くのは良いものだ。相手が佐吉でなければ、もっと世間話に興じていたかもしれない。
だが今は、赤子の近況を聞くよりも、尾行されていたことが気になって仕方がなかった。
ここは京。治安が悪いとわかっているので、何かトラブルに巻き込まれたのではと不安になるのだ。
この宿は福島家が棟借りしている。他には客はいない。
遠くに宿の者がいるのは見えるが、基本的に勝千代の身の回りの世話をするのは側付きたちだ。
足を拭き、急傾斜の階段を上がるころには、周囲は福島家の面々のみになり、他に話を聞かれる心配もなくなった。
この宿で最も広い部屋に到着すると、廊下に膝をついて迎えてくれた留守番組の若手が、すっと端正な動きで障子を開けた。
部屋は大通りに面した二階。賑やかな通りが一望でき、遠くにはなだらかな山並みが見える。
柱や欄間には見事な彫り物がなされ、襖にも金箔が趣味良く散りばめられ、青々とした真新しい畳の淵には細かな織りの模様がしつらえてある。
わかりやすい豪華さではないが、高級な調度品でそろえられた居心地の良い部屋だった。
うちの予算で借り上げるにはちょっとどころではなく足が出そうだ。
足りない部分は日向屋が払ってくれたのだろう。
それだけでもありがたいのに……手土産か。
勝千代はさっさと部屋に入ると上座に座り、入室の許可を待っている佐吉に目を向けた。
「入るがよい」
「はい、それでは失礼いたしまして」
どこをどう見ても、商人にしか見えない。
それが忍びというものだとわかってはいるが、だからこそ得体が知れず胡散臭い。
しれっと人の好いふりをしてニコニコと微笑む佐吉に、「笑うな」と言ってみようか。そんな考えをもてあそびながら、無言で用件を言えと促す。
佐吉は一度深く頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、変わらず笑ってはいるが、「ただの商人」の顔ではなかった。
「ますますもって、御壮健の御様子……」
「そういうのは良い。話があるのだろう」
しょっぱな挨拶から入られそうになり、軽く扇子を振って遮る。
「日向屋の用か。その方の用か」
「よくない話と、良い話と、どちらを先に?」
パチリと扇子を開閉し、臆することなくこちらを見ている佐吉と目を合わせる。
質問に質問で返すのは、もったいぶっているわけではなく、予防線だろう。
勝千代は扇子を口元に持って行き、嘆息した。
どちらも聞かないという選択はないだろうか。
「……よい話から聞こう」
佐吉は軽く頭を下げた。
「扇屋をご存知でしょうか」
佐吉が上げた屋号には聞き覚えがあった。
どこで聞いたか思い出せず、しばらく考えるが……やはりわからない。
「その扇屋がどうした」
「若さまに恨みがあるとかで、よからぬあたりと結託して陥れようと画策しています」
「……良い話ではなかったのか?」
「ただの雑魚でございますれば、放置しておいてもたいして問題にはなりますまい」
もしかして、先ほど尾行してきていたのはその「扇屋」とやらだろうか?
「ただ、それに便乗して若さまを呼び出そうとなさっておられるお方がいらっしゃいます」
「私をか?」
地方の一武将の嫡男に過ぎない勝千代に、一体何の用があるというのだ。まだ元服すらしていない子供だぞ。
「今のところ、御身に危害が加えられるというようなことはないかと存じます」
佐吉はさも嬉しそうにニコニコと笑顔で、「よかったね」と副音声が聞こえてきそうなほど何度も頷いてきた。
ここまで親身な顔をしつつも、その「お方」が誰かまでは言うつもりはないのだろう。
まったく、質が悪い。
勝千代は再びこぼれそうになる溜息をぐっとこらえた。
「やはり良い話には聞こえないが」
「そうでしょうか。若さまでございましたら、苦も無くしのげますでしょう」
しのげればいいという問題ではない。
まあ、忠告はありがたく受け取っておくが。
「わかった。それでは悪い方の話を聞こう」
一拍おいて、佐吉は大きく首を上下に動かした。
「福島亀千代様の件でございます」
ここしばらくは感じていなかった痛みが、ぎゅうと鳩尾を締め上げた。