30-7 東海道 南近江国境 今川本陣7
細かな打ち合わせのないうちに、実行に移すには不安がある。
だが今回の場合、打ち合わせをしている時間が惜しい。
注意を払うべきは風魔小太郎だ。追っ手か逃げ手か、あるいはその両方を監視しているはずだ。
忍びの目をかいくぐるのは不可能だと思った方がいい。北条方の風魔衆はとにかく人数が多い。うちの奴らでは太刀打ちできない。
腕の良し悪しではないぞ。単純に数の問題だ。
金がない福島家が雇う人数には限りがあり、資金潤沢な北条は気前よく雇えるというわけだ。
話がずれた。
つまりどういうことかというと、連中の目をかいくぐるのではなく、対処に困る状況に追いやればよい。
判断を仰ごうにも、今回の仕掛け人は酒宴中だ。そのご機嫌に水を差すのを多少は躊躇うだろう。
そんな、短時間の逡巡でいい。
逢坂騎馬隊が仕事をするのに十分な時間が稼げるはずだ。
それほど長く待たず、段蔵が戻って来た。
相変わらずの無表情ながら、大きく首を上下させたのでうまく事が運んだのだと思う。
「一刻半ほどお待ち願いたいとのことです」
「一刻半か」
つまりは三時間。こんな刻限だし仕方がないが、間に合うのか?
不安を感じて首を傾げる。
橋が落ちた音が聞こえるぐらいだから、距離は物凄く近いはずなのだ。勝千代なら、夜だとしても足は止めない。つまりはいつこちらに駆け込んできてもおかしくないという事。
時間稼ぎに巡回兵を出して、追い返すか?
勝千代は渋々と臥所から離れた。
すかさず寄ってきた南が、身支度を整えてくれる。
適任者がなかなか見つからなくて、苦労した。
段蔵がひと仕事をして戻ってくるよりも、酒を飲んでいない者を探す方が難しいというのはどういうことだ。
勝千代が酔っ払いどもの酒宴を覗いてみた時、左馬之助殿は泥酔状態、長綱殿も早いペースで酒を口に運んでいた。
「おや、眠れませんでしたか」
かなり出来上がった様子の井伊殿が、真っ赤な顔をして話しかけてくる。
このオヤジは酔ったら声が大きくなるのだ。おかげで勝千代が姿を見せたのがすぐに知られてしまった。
「……ええ、随分賑やかですね」
「勝千代殿も大人になればわかりますぞ!」
わっはっは! と普段の三倍ほどの大きさの声で叫ばれて、思わず首が逆方向に傾く。
弥三郎殿に兵糧の帳面を見せてもらったからわかるのだが、それほどいい酒をそろえていたわけではない。これだけ酔っぱらっているのだから、ありったけの酒をだしてきたのだろうが、在庫は安酒ばかりだったはずだ。
勝千代はぐてんぐてんの酔っ払いたちと、顔には出ないがやはり酔っている者たちとをぐるりと見まわしてため息をついた。
今襲撃を受けたらどうするつもりだ。
「なにか食べる物は残っていますか?」
そう、ヤマメの味噌焼き! 勝千代が釣り上げた奴も混じっていたはずだ。多分食べつくされたと思うが……ああやっぱり。
酔っ払いどもはありったけの酒を飲み干し、用意された肴はすでに平らげていた。
勝千代はもう一度ため息をついた。
「握り飯ならありますよ」
ニコニコとそう言いながら手招いているのは長綱殿だ。
そう言う間にも童顔の僧形はぐびぐび酒をあおっており、顔色一つ変えていない。
向かいあっている朝比奈殿は幾らか首筋が赤いが、まだ正気そうに見える。
彼らの間に置かれているのは……塩と梅干だ。食い物より酒か。のんべぇどもめ。
油断をあおるためなのかは知らないが、自軍を放り出してよくやる。もちろん配下を信頼しているからこそできる事だろうが。
勝千代は呆れ半分、忍耐半分の微妙な気分で握り飯を齧った。
小ぶりな握り飯を食べ終わる頃には、あと何時間もこの惨状を見ていなければならないのかと顔を出したことを後悔し始めていた。
だが目の前の童顔と暢気の兄弟から目を離すわけにはいかない。
ひたすら白湯を飲み続け、腹はすぐにタプタプになった。
もちろん酒は飲んでいないが、鼻が曲がりそうなほどの強い酒の臭いが充満しているので、それだけでも酔ってしまいそうだ。
その間、勝千代はずっと長綱殿の仏教談義を聞かされ続けた。
罰ゲームか。
酒の臭いと仏教談義に頭がくらくらし、もう限界だなと眠気に思考が支配され始める頃、どこからか小太郎の大柄な姿が現れた。
酒をあおる長綱殿の手がとまり、同時に口も止まる。
もう三時間たったのか? 勝千代は何も知らぬという表情を作って、湯呑みをすすった。
小太郎に何かを耳打ちされ、ちらりとこちらを見る気配がした。
やったな。
どういう結果になったにせよ、思惑通りに事は起こったらしい。
勝千代はしょぼしょぼする目で長綱殿の隣を見た。
……左馬之助殿が酔いつぶれて鼾かいてるけど、いいのか?
勝千代の視線を追って、長綱殿も兄を見下ろして顔を顰めた。
「寝床を用意しましょうか?」
もちろん皮肉だぞ。お願いしますと言われても困る。
「いや、寝るなら自軍に戻られた方がいい」
勝千代がそう言いなおすと、長綱殿の表情が惑うように動いた。
視線が合って、次第にその童顔に硬質なものが混じる。
「……面白い」
「いやまったく面白くはないです」
長綱殿の言いたいことはわかるが、理解していない態でそう応え、タプタプどころか逆流しそうな腹をさすった。
「そろそろお開きにしましょうか」
そちらは忙しくなるだろうし。
「無関係」の我々は、今から日が昇る刻限まで寝る時間だ。




