30-6 東海道 南近江国境 今川本陣6
夜が来た。来てしまった。「早く帰れ」というこちらの総意をまったく読み取らず、北条兄弟が居座ったままでの夜だ。
仕方がないので食事を振舞った。いいものは出せないけど。
左馬之助殿は申し訳なさそうな顔をしたが、長綱殿は怖気を振るう程に上機嫌だった。
ここまで来ると、粘っている理由があるのではと勘繰りたくなってくる。
今川館からの追加の指示書が来るとか? 来たとしても、今度こそ届かなかったふりをしてやるが。
勝千代は子供だという事を前面に押し出して、早々に寝床に引き上げることにした。
普段であればまだ起きている時間だが、これ以上付き合っていられない。
怖いものなしの井伊殿は北条兄弟を酒宴に誘っていた。
僧侶が酒を飲むのか? いや出家しているのに俗世で軍を率いているぐらいだから、酒ぐらい飲むか。
ちなみに肴はヤマメの味噌焼きだそうだ。
夕餉よりいいもの食うんじゃないよ。ずるい。いや付き合わないけど。
勝千代は引き留めたそうな大人たちを振り切り、さっさと寝床に下がった。野営中なのでただ陣幕の内側に寝る場所を作っただけだが、気候がいいので十分眠れる。雨も降りそうにないし、まだ蚊もいない季節だし。
眠ろうと目を閉じると、近場で大人が酒を飲んで騒ぐ声が耳についた。
ずいぶん暢気なものだ。急いでるんじゃなかったのか? ……まさか朝まで居座るつもりじゃないよな?
にぎやかな喧噪をBGMに、少しウトウトと微睡んでいた。
それほど長く寝ていたわけではない。
軽く揺すられてパチリと目を開けた時、まだ月の位置はそれほど変わっていなかった。
「ご報告が」
陣幕の影から囁くのは段蔵だ。
何度か瞬きをして、「なに」と問い返した声は、我ながら眠そうだった。身体を起こしてから軽く欠伸をかみ殺す。
明日の朝でもいいようなことでわざわざ起こしてくるとは思えないから、何か急を要する事があるのだろう。
勝千代は滲んだ涙を手の甲で拭い、暗がりに控える男を見上げた。
「逃げているのは農民ではありませぬ。あれは武家です」
勝千代の頭が、その意味を理解するまでに少し掛かった。
ああ、追っ手を撒くために橋を落とした奴らかと思い出し、どういうことだと首を傾げる。
「どうやら身を隠していた京極家の方のようです」
勝千代の畿内の知識は、おおむね中の人のもの(現代知識)ではない。高天神城の引きこもりやその他、付き合いのある商人や知り合いの公家などから聞いて学んだ。
詳細な事など知りようもないし、それがどこまで正しいかもわからない。ただ、今現在六角領で身を潜めている京極といえば、ひとりしか思い当たらなかった。
たしか兄に追放され、六角殿に保護されていたはずでは?
穏やかではない状況だ。おうちに帰るだけの今川軍にはかすりもしない揉め事なので、できれば触れないままでいたい。
逃げているという三百の農民がすべて武士ではないのだろう。もしそうなら、騎兵とはいえ百を相手に引かないはずだ。
よほど戦が不得手なのか、戦える者が少ないのか。
「……追っ手はどうしている」
「少し距離が空きました。偽りの痕跡に惑わされています」
勝千代は耳を澄ませ、酒宴の声がまだ続いている事を確かめた。
「……仕組まれたと思うか」
「武家と農民を見間違える男ではありません」
勝千代は深く溜息をついた。
すっかり眠気は冷めてしまった。お子様の成長には睡眠が大切なんだぞ。
その苦情をどこに向けるべきかしばし悩み、結局もう一度ため息をついて飲み込んだ。
「わかった。あちらがその気ならこちらも好きにする」
勝千代がそう言うと、段蔵は幾らかほっとしたような気配をもらした。
さらっとだましてきた小太郎に激怒するとでも思ったのだろう。同じ風魔への情か? いや、騙されかかった事への引け目だろうな。
仕方がない、絶対に童顔僧侶の企みだ。あの男、きっと腹から真っ黒だぞ。
「こちらに誘導してくるだろう」
勝千代はしばらく思案してから、そう結論付けた。
六角は京から引いたが、潜在的に万の兵を内に抱えている強豪である。今は揉めているので外に出てくることはできないだろうが、今川軍の足止めなら可能だ。
いや六角殿にとっては足止めではなく、ただ揉め事への対処なのかもしれない。
その行動に巻き込まれること自体が、長綱殿の目論見なのだろう。
「幸いにも、今川と北条の軍には距離がある。あちらに迷い込んでもらおうか」
小太郎はどうやって農民(偽)を今川軍に誘導するつもりだろう。やはり道案内をしている内通者がいるのか。あるいは追っ手に扮し追い込むつもりか。
「逢坂」
「は」
宿直に呼ばれたのだろう、酒宴に参加していたはずの逢坂老がいつの間にか陣幕の側に控えていた。
追手は騎馬隊。騎馬とくれば逢坂家だ。明るい夜ならば馬を駆るなどお手の物だろう。
「追っ手に扮してあっちの方向に追い立てよ」
あっち、というのはもちろん北条軍千が野営している方角だ。
月明かりは灯明よりもずっと明るいので、その皺顔がはっきりと見て取れる。
じっと見上げて、酒精に赤らんだその顔に、年寄りの飲酒運転はまずかろうと言葉を詰まらせた。
勝千代のその逡巡を見て取って、逢坂老は思いっきり心外そうな顔をした。
「……酔ってなどおりませぬ」
いや、酔っ払いは大概そう言うからね。
勝千代は苦笑している逢坂老の息子に視線を向け、無理そうなら止めるようにと釘を刺した。




