30-3 東海道 南近江国境 今川本陣3
続く数秒の間。
勝千代は違和感に顔を顰めた。
突きつけた刃の先で、首から血を流している者もいる。寸前までの調子だと大騒ぎになりそうなのに、誰ひとり声を上げない。
これが恐怖や動揺で黙り込んだのならまだわかるのだ。
だが、先程までのキンキン耳にくる不快な声がぴたりとやみ、こちらを見ている若い男たちから表情が消えている。
「……へぇ、なるほど?」
童顔の僧形がぽつりと言った。
それを聞いて、勝千代の背筋にぶわっと汗が浮いた。
……この男。
嫌になるほど真顔だった。試されたのだとすぐに分かった。
「制止が間に合わねば切っておりましたよ」
勝千代の言葉に、弟殿は唇の両端を釣り上げた。
何だよ、こいつ。絶対それを利用して難癖付けてくるつもりだったな。
無表情に立っている北条の若武者たちを見て、そういう扱いが初めてではないのだろうと察した。
切られること前提なのか? 配下の者たちも納得している? そんな事は……いや、双方了承しているのなら問題はないのか?
恐怖で統制しているのか、そういう奴らが集まっているのか。
個人の性癖までどうこう言うつもりはないが、ついていく相手は選ぶべきだぞ。
「場所をかえましょうか」
勝千代は静かに言った。
「その前に、朝比奈殿に穂先を下げるよう言うてやってください」
どの口が言うのだ。
勝千代は白い目で痩身の僧形を見た。
「危機感を楽しむ御気質のようですし、このままでよいのでは」
身分ある方に対し、失礼な言い方だったと思う。だが、配下の命を使い捨てにするようなやり方は好きになれない。
勝千代の返答を受けて、少し驚いたように目を丸くして。
童顔の僧形は楽しそうに満面の笑みを浮かべた。笑うと頬にえくぼが浮かび、まるで十代の少年のようだが……絶対見た目通りの年じゃないだろう。
いつのまにか、救護班のほうからも騒ぎが聞こえなくなっていた。
合図のようなものがあったのか、方々で起こっていた騒ぎが一気に止んでいる。
トラブルが収まるのはいいことだ。大人しくしていてくれるのなら、保護受け入れもやぶさかではない。
だが、あれほど四方八方で大量のクレーマーが湧いていたのに、それが一気に止んだとなると……何事かと思うぞ。
「負傷者は丁寧に扱うように」
勝千代がそう言うと、いまだに刀を突きつけたままだった側付きたちが戸惑うような顔をした。
「手当てを」
谷が突きつけた切っ先が若者の首の皮を破き、かなり出血している。
命に係わるほど深くは切らず、そこで刀を止める技量はたいしたものだが、できれば怪我をさせない位置で止めてほしかった。
ともあれ話し合いだ。
勝千代は朝比奈殿に目配せして槍を下げさせ、身振りでお客人を陣幕のほうへと誘った。
満面の笑みの僧形は楽し気に「ははは」と笑った。
勝千代はその急な哄笑に飛び上がりそうになるのを、かろうじて堪えた。
何で笑うの。
そう思っているのは勝千代だけではない証拠に、寸前まで感じ悪い態度をとっていた弟殿が屈託なく笑っているのを見て、皆が凍り付いている。
陣幕の内側には今川軍の主だった幹部がそろっていた。朝比奈殿が床几どころか卓までひっくり返して出て行ったのに、誰ひとりとして腰すら浮かせていない。
勝千代はその様子をぐるりと見まわした。
誰とも微妙に目が合わないのは気のせいか?
何故か最奥に子供用の床几が置いてあり、顔を顰めた。舌打ちしていたかもしれない。
近くにいた何人かがビクリと怯えたように肩を揺らした。
そうだよな、意味なく笑われたら怖いよな。
くすくすくす……背後の哄笑が、小鳥のさえずりのような軽やかな含み笑いになった。
基本的に勝千代はご機嫌な人間が好きである。
笑顔は世界を救うと本気で思っている。
だが、童顔僧侶のその笑みには、背筋がぞっと冷えた。
何を笑っている。笑うようなことは何もないだろう。
嫌々ながらも振り返って見上げると、もの凄くキラキラとした目つきの弟殿がいた。
見た目だけなら、若手アイドルもかくやの容姿をしているが、外面のいいその皮を一枚剥いだ下にはきっと、どろりとした暗色の何かが潜んでいる。
「……では、話し合いを済ませてしまいましょう」
向かいあうように腰を下ろし、勝千代は改めて左馬之助殿の弟殿を真正面から見つめた。
同盟国とはいえ、その国の看板を背負っている対面で、子供の勝千代が出て行く予定ではなかった。
だが、これはかなりの難物だ。
直情型の人間が多い今川軍とは相性が悪い。対処できるのは井伊殿ぐらいしかいないのではないか。
気づかないうちに死地に追い込まれ、五倍の兵力でもあっさり溶かされそうな気がした。
「まずは御挨拶を。長綱と申します」
どこの長綱さんだよ。ちゃんと名乗れよ。
勝千代はきゅっと唇を引き締めた。こちらの悪感情は伝わっているだろうが、それを面に出すわけにはいかない。
「福島勝千代と申します」
「お噂はかねがね。ずいぶんと兄がお世話になったようですね」
ニコニコと笑顔。とにかく笑顔だ。
周囲が真顔の中、ひとりだけ花が咲きそうなほどの満面の笑み。異様な雰囲気だった。
話し合い。そうだ話し合いだ。
勝千代は別の方向に引っ張られそうになる意識の手綱を引き締めた。さっさと話をまとめて、とっととお引き取り願おう。
「襲撃されたとお伺いしました。相手がどこかおわかりですか?」
怪我をした者も少ないし、襲撃そのものが嘘だという可能性もある。そもそも千の軍勢、側には五千の同盟軍がいる状況での襲撃というのがおかしいのだ。
「いきなりでしたからねぇ」
胡散臭い。
勝千代は気づかれないように大きく息を吸い込み、警戒心をもう一段階引き上げた。
「そうですか」
この男の何にそこまで警戒し、何が恐ろしいのかと考えてみる。
合う合わないの問題ではない。ずっと笑顔なのは怖いが、それだけでもない。
勝千代は、難物相手にどう対処するべきか迷った。
笑顔には笑顔を返せばいいのか? そんな雰囲気でもないのだが。




