29-5 宿場通り 庶子兄3
湯浅殿は伊勢殿からの正使で、その要望を伝えるために来ていた。
内心どう思っているかは定かではないが、与えられた役目を実直にこなし、用が済めば余計な事をせず帰ろうとしている。
だが、今川軍というよりも勝千代に思う所のある庶子兄は違った。
やり返したい、復讐したい、全身から溢れ出ているそんな感情に、勝千代たちだけではなく、堺衆もまた顔を顰めて見ている。
庶子兄は福島家で復権したいんだよな? だとすれば、朝比奈殿にまでその敵意をむけるのは良くないぞ。
「話がそれだけでしたら、お見送りいたしましょう」
これまで非常に悪い表情で状況の推移を見守っていた井伊殿が、「よっこらしょ」と掛け声が聞こえてきそうな挙動で腰を上げた。
「少々立て込んでおりますのでお構いもできもせず。次からは前日までに先ぶれを頼みますよ。さすがに無作法なのも困ります」
「……っ!」
ニコニコと邪気のない顔でそう言われ、庶子兄はカッと首筋まで赤くなった。醜態をさらした自覚はあるのだろう。
井伊殿はまったく気にしていないという風に、フレンドリーな仕草で両手を広げた。そして、身構えている周囲の者たちに向かって、芝居ががった仕草で首を振る。
「各々も控えよ。客人がお困りだ」
一見いい感じの仲裁なのだが……騙されたら駄目だ。
勝千代は用心深く井伊殿の顔を見てから、こちらにお伺いを立てている者たちにおざなりに頷いた。
鯉口を切っていた者たちが、静かに刀の柄から手を離す。
波が広がっていくように、殺伐とした雰囲気が凪いだ。
「見送りは結構」という湯浅殿の背中を押すようにして、井伊殿が部屋を出て行った。
大丈夫か?
露骨なまでに明るいその声を聞いて、逆に心配になった。
非常に有能で役に立つ男なのだが、策謀が過ぎるのだ。まるで空気を吸うように、常に余計な事を考えている気がする。
三浦に目配せしてついていくようにと指示を出した。絶対にこのまま帰すわけがないと、無駄な確信があったのだ。
何をするつもりにしても、お目付け役は必要だろう。
遠ざかっていく後ろ姿を横目に、露骨にほっとした様子の堺衆たちに向き直る。
ものすごく不安だが、今はこちらの客人が優先だ。
「あっ!」
商人たちに向き直って、たった数秒しか経っていない。
改まった表情で背筋を伸ばした者たちのうち、何人かが声を上げ、何人かが息を飲む。
勝千代はさっと廊下の方を振り返った。
内心にあったのは、「やりやがったか?!」という危惧だ。何をやったのかはわからないが、碌なものではないという確信はあった。
「井伊殿!」
三浦の緊迫した大声が耳朶を打った。
勝千代が見たものは、庶子兄を廊下に押さえつける今川の兵士たちと、呆然とした湯浅殿、それから、次男彦次郎殿に抱え込まれた井伊殿の姿だった。
ガシャンと、庶子兄の刀が床に落ちる音が聞こえた。
鞘に入っていない、むき出しの刀だ。
勝千代は勢いよく立ち上がった。
部屋を飛び出し、現場に駆け付けるまで、子供の足でも一瞬の距離だった。
「井伊殿!」
勝千代の甲高い声に、こちらを見たのは彦次郎殿だ。井伊殿は顔を伏せたまま動かない。まさか深手なのか?
日が差し込む廊下で、転がった剥き出しの刃がギラリと光りをはじいた。
そこにまぎれもない鮮血の跡があるのを見て取って、全身から血の気が引く。
庶子兄が、井伊殿に切りつけたのだ。
頭の片隅ではわかっていた。これは井伊殿の策だ。だがそれ以上に、ほの暗い激情が先に立った。
ぱっつりと、己の中で何かが切れる音がする。
それは理性だったかもしれないし、かろうじてあった庶子兄への情だったかもしれない。
「湯浅殿」
勝千代は努めて感情を押し殺した声で言った。
「どういうことかお聞かせいただいても?」
「申し訳ない!」
潔く頭を下げた点は、いまだに見苦しく喚きもがいている庶子兄よりは評価できる。
だがしかし、軽く謝罪した程度で許してよい事ではない。
「……わかりました。これが伊勢殿の御意向なのですね」
「お、お待ち下され!」
「この件は国元に帰り次第、報告させて頂きます」
「勝千代殿!」
有無を言わせず出口まで引き立てられていった二人を、もはや見送ることもなかった。
勝千代はまだうつむいたままの井伊殿の傍らに膝をつく。
近寄ると血の臭いがした。大嫌いで不快な臭いだ。
勝千代がその顔を覗き込んだ瞬間、「父上、もう行きましたよ」と彦次郎殿が言った。
パチリと開いた目が悪戯っぽくきらめくのを見て、とっさにデコピンしたくなった気持ちがわかるだろう?
わざと切らせたのだと察してはいた。それでも、深手なのではないかと心配していた。
廊下に転がっている刀は玩具ではなく、容易く人の命を刈り取れる武器なのだ。
「……お怪我は?」
井伊殿はにっと口角を引き上げて、真っ赤に染まった手を持ち上げた。
わき腹を切られたように見え、その手が握っているのは袋状の何かだ。
あれか、血糊袋とかいう奴か。
「負傷はしておられないのですね?」
「まったく」
勝千代はあきれ果て、ため息を我慢することが出来ず大きく肩を落とした。
「肝が冷えました」
「それは申し訳ない」
まったくそんな事は思っていないんだろう。悪い奴め。
子供のように得意げな中年男の表情に、勝千代はじっとりと目をすがめた。
「……彦次郎どの、井伊殿を別室へ。着替えが必要でしょう」
いっそ負傷したという態で押込めてしまった方がいいんじゃないか。
彦次郎殿と目が合って、きっと同じことを思ったに違いないと確信した。




