3-4 上京 一条邸4
「わかった風な口を!」
松田殿の、思わずこぼれたのだろう呟きに、勝千代だけではない、権中納言様も呆れた目を向ける。
ここまで露骨に利用しようというのなら、お互いに有利になるような盟約が必要だ。
それすら用意できず、口惜しいも何もないだろう。
松田殿はさも勝千代が台無しにしたような顔をしているが、違うから。
権中納言様はもとより、お断りするつもりだったはずだ。
都合よく京に居合わせた勝千代にそれを代弁させ、憎まれ役を買わせたのだ。
十日でこの地を去る、地方の一武将の子だからね。
実に公家らしいやり口だ。
「吉祥様」
勝千代がそう呼ぶと、水干姿の少年は露骨に嫌悪の表情をした。
険悪どころか憎悪の域にある目つきだ。
「これまで幾人の、無辜の子供が死したかご存知でしょうか」
どんな育ち方をすれば、こんなに尖った子供になるのだろう。
哀れに思わなくもない。似たような境遇だと、同情する気持ちも多少はある。
だが、この方は知っておくべきだ。
幼いからという言い訳は、いつまでも通用しない。
「あなた様の身代わりとして、命を落とした者たちがいます」
「福島殿!」
「耳を塞ぐのは、吉祥様の御為ですか? 松田殿の思惑ですか?」
「……っ」
幼い声色での冷静な返しに、松田殿は息を飲んで言葉を詰まらせた。
勝千代は構わず続ける。
「もう一度言います。吉祥様の身代わりとして、死んでいった幼い子供たちがいます。ひとりふたりではありません」
吉祥殿は、何を言われているのかよく理解できていない風に顔を顰め、唇をへの字に歪めた。
「あなた様がいなければ、死ななくても済んだ子供たちです」
繰り返し、言い聞かせるように言葉を重ねても、響いてくるものは何もなかった。
知っていたのか? それなのに、何も感じないのか?
不貞腐れたその表情は、下々の犠牲など当たり前だと感じているようにも見える。
勝千代は、小さく息を吐いた。
これがサラブレッド、生まれついての若君というものなのかもしれない。
吉祥殿を責めることはできない。この方は、そういう育てられ方をされただけなのだ。
勝千代とて、知らず誰かを犠牲にしているのかもしれない。
いつしかそれを、当たり前だと思うのかもしれない。
「そうだ! これからはそちが勤めよ。背は少々足りぬが、前の商家の娘よりはましであろう」
だが、勝千代がどんなに良く見ようとしても、意地の悪い眼差しは取り繕いようもない。
ため息をもう一つ飲み込む。
「ご協力は出来かねます」
「福島殿! 重ね重ね無礼であろう! 若君の御言葉に否やを唱えるなど、不忠にも程が……」
松田殿の威圧的な声色に合わせて、吉祥殿の顔に粘度の高い暗い笑みが浮かんだ。
これはあれだ、己の言い分が通ると信じ込んでいる顔つきだな。
もちろん頷くつもりはないが……厄介なことになった。
しかし、パチリと鋭く扇子が閉ざされる音がして、一瞬でそれら微妙な空気は霧散した。
ぼーっとしている吉祥殿と違い、さっと頭を下げたのは松田殿だ。
次いで勝千代も居住まいを正してから、正式な所作で両手を床の上につく。
二度、三度、と苛立たし気に扇子が鳴る音がして、数秒後にようやく吉祥殿も渋々と頭を下げたようだった。
ちょっと、誰だよこの子に作法教えたの。
一条家当主であり、権中納言であるこの御方は、現職の将軍の弟などよりよっぽど身分が上なんだぞ。
これまで己よりも身分が高いと言えば兄だけだったのかもしれないが、それでも位階としては従四位あたりじゃないか? この御方はそれを軽く飛び越えて、おそらく上から数えて二つ目三つ目あたりだ。
視線は畳の目に据えて動かせないので、吉祥殿がどういう態度をとっているのかわからない。
だが、権中納言様の扇子の開閉が止まらないところを見ると、合格点には遠く及ばないものなのだろう。
「勝千代殿は麿の大事な客や言うたはずやが?」
……普段から穏やかな口調を崩さない御方だ。ここまでひんやりと肝が冷える御声を聞いたことがなかった。
「松田。やはりこの話はなかったことに」
「権中納言様!」
「姫の婿に相応しいとは思えぬ」
最後にひと際鋭くピシリと鳴り、絹擦れの音とともに席を立たれたのが分かった。
そのまま一言もなく退出され、よほど御気分を害してしまったのだと知れる。
気配が遠ざかり、なおも深く頭を下げた姿勢のままでいると、ごそりと身動きする気配がした。
駄目だぞ。まだ頭を上げてはいけない。
勝千代がそう心の中で願っていても、辛抱のできないお子様はすでにもう身体を起こすどころか、立ち上がっていた。
ざっざと数歩で距離を詰めてきて、また蹴られるのかと身体を固くする。
前歯は死守するぞ!
蹴りは背中か尻で受けようと更に身体を縮こまらせ身構える。
「あにさま」
ふと、あどけなく可愛らしい子供の声がした。
一条邸で、勝千代をそう呼ぶのはひとりだけだ。
その声が思いもよらず近かったので、とっさに危険が及ぶのではないかと血の気が引いた。
見苦しくとも構わない、這うようにして目の前に振り上げられた足をかわし、声とは遠ざかる方向に転がる。
「あにさま?!」
「来てはなりません! お下がりください!」
そう叫んだ勝千代の視界を掠めたのは、近い距離にある廊下に立ち尽くす小柄な女童。
その身を守ろうと立ちふさがった、お付きの女房がふたり。
三人目の女房の腕には二歳ほどの童子が抱きかかえられていて、部屋にも廊下にも入りきらない人数の侍従がその後ろに見えた。
部屋のキャパシティーを無視したその数が、肉壁としてきちんと機能してくれるだろうかと肝を冷やした。
だが、畏れていたようなことは起こらなかった。
ぽかんと口を開けた吉祥殿は頬を赤らめ、一条家の愛姫に見惚れている。
その何ともコメントしずらい情景を、勝千代は畳の上に転がった状態のまま見上げた。




