28-1 下京外 刺客1
翌早朝、和睦の勅使が両陣営に遣わされた。
日が昇り始めても両軍はどちらも動かず、上京下京をつなぐ大門は固く閉ざされたままだ。
和睦の内容については、勝千代の関知するところではない。
ただ、どちらかに極端に有利なものではない事を祈る。
このまま痛み分けとなり、両軍が陣を引いてくれるといいのだが……
「少し休まれては」
三浦兄が気づかわしげに言うが、眠れそうにない。
色々考えているうちに夜が明けて、勅使が叡山を出たと知らせを受けてからは、京が見えるこの位置でずっと立っている。
あと少し。
そう思っているうちに東山の際から日が差し、荒れ果てた町を明るく朝焼けに染めて行った。
鳥が甲高く鳴く。
一晩掛けても収まらなかった土埃が、うっすらと白く瓦礫の平野を覆っている。
ふと、背筋に悪寒が走った。
気配を察した? 第六感のようなものが発現した? いや違う。
物理的にキーンと耳鳴りがしたのだ。
ぞわりと背中に電気信号のようなしびれが走り、無意識のうちにふらり、と後方によろめいていた。
痛みはなかった。
ただ、急にまっすぐ立っていられなくなったのだ。
ガッと勝千代の腕をつかんだのは谷だ。
覆いかぶさるように飛び掛かってきたのは土井だ。
二人がかりで引っ張られ、ビタンとその場で地面に転がった。
後ろ向きだったが、三浦の腕が後頭部を強打するのだけは防いでくれた。
その他にも何人か、勝千代の護衛が一斉に動く。
何が起こったのかよくわからないままに、既に戦いは始まっていた。
重い音をたてて続けざまに矢が飛んでくる。
「……ぐ」
そう重く息を吐いたのは、勝千代の真上にのしかかっている土井だ。
他にも複数名の呻き声が聞こえたが、それはくぐもった吐息に過ぎず、余計な怒声や悲鳴は上がらなかった。
びゅんびゅんと飛んでくる矢は、途切れることなく勝千代のいる地点を的にしていた。
「置き盾!」
朝比奈殿の鋭い声が戦場に響く。
そうだ、ここはすでに戦場だ。
勝千代の耳は、いまだにキーンと不快な音をたてている。
十数秒ほどで、大きな影が太陽を遮った。
ガツガツと矢じりが木にぶつかる音。
「お勝さま! お勝さま!」
耳元で大声で叫んでいるのは土井だ。
時間的にはそれほど長くはなかったはずだ。矢が切れたのか、飛んでくる量が減り始め、やがて途絶えた。
鼓膜はずっと仕事をしない。
「巽の高台に伏兵! 殲滅せよ!」
井伊殿のやけに響く大声が聞こえた気がしたが、定かではない。
もごもごと遠くで男たちの怒声が聞こえる。
それがようやく形になったのは、両手で頬を挟まれ至近距離で怒鳴られたからだ。
「お勝さま!」
いや、声大きい。
土井の戦場で鍛えた大声は健在で、耳元で怒鳴られたら今度は物理的に鼓膜が破けそうだ。
「……だいじない」
「ですが矢が!」
「刺さってはいない」
「血が出ております!」
だから、声が大きいんだって。
幸運にも矢は直垂の大きな袖を射抜いていた。脇の部分だ。勢いよく刺さった際にわき腹の肉を幾らか削いだが、浅手だ。
遠方からの矢の勢いにつられて立っていられなかったのだろう。
勝千代は自身の手で、袖に刺さったままの矢を抜いた。下に着た白い小袖に血の染みが広がっているが、それほどの出血量ではない。
急ぎ駆け寄ってきたのは朝比奈殿だ。
気がかりそうな表情で勝千代の側に膝を突き、浅手だと見て取ったのだろう、わかりにくいがほっと表情を緩めたようだ。
「伏兵が夜のうちに潜んでいたようです。まだ安心はできませぬ、一旦宿場まで引きましょう」
多少ひりひりする程度だったので、大丈夫だと答えようとしたが、土井の腕に刺さった矢を見て意見をかえた。
見れば、防具がつたない福島勢に負傷者が多い。
父から預かった大切な男たちの手当てが先だ。
勝千代は頷き、後の事は朝比奈殿に任せることにした。
勝千代が土井の手を借りながら立ち上がると、同時にぶ厚い木の板も向きを変える。
盾というには大きく、片手で持ち運べるサイズではないが、これなら確かに矢を防げるだろう。
「井伊殿に、深追いはせぬようにと」
せっかくのさわやかな朝日を遮断され、それを大げさだと言えないことに表情を引き締める。
「……ですが」
「今川軍を分断させる目的かもしれません」
渋い顔をした朝比奈殿に念を押すと、「はい」と頷きが返された。
周囲からの気がかりそうな視線を浴びつつ、勝千代は己の足で宿場通りまで歩いた。
ずっと重そうな木の盾がついてきて、再びの奇襲を警戒している。
伊勢殿だろうか。その可能性が最も高いとは思う。だが、鶸の言葉も気に掛かる。
白昼堂々と、帝の勅令が下された直後にこのような行動に出るとは……。
リスクを考えれば、おいそれと動けないはずなのだが。
いや、勅令にはおそらく対今川に関する文言はないはずだから、それを逆手にとっての凶行かもしれない。
宿場通りが見えてきて、急にじくじくとわき腹が痛み始めた。
かすり傷だが、小袖に血の染みが広がる程度には出血している。
これまでも狙われてはいたが、傷ひとつ負う事はなかった。
だが今回はその刃の先が届いた。
ほんのわずかな傷ひとつでも、死につながりかねない時代だ。安易に「たいしたことはなかった」などと思うべきではない。
宿にしている屋敷に到着するなり、待ち構えていた弥太郎に衣服を剥がれた。
特に異常はないから毒などはないはずだ。それなのに念入りに傷口を調べ、脈や体温を確かめている。
勝千代より重傷な者がいるからそちらを先に……と言いたかったが、もの凄く心配されているのが伝わってきて口をつぐんだ。
「襲撃したのは左京を縄張りにしている浪人の一団でした」
浪人? 浪人が五千の今川軍に向かって弓を放つのか? 自殺行為だろう。
「陣中の子供を遠射して当てれば、生死に関わらず法外な報奨金を払うと言われたそうです」
弥太郎はぶつぶつとつぶやくような口調でそう言いながら、手持ちの薬箱を広げて粉末状の薬草を取り出し、小皿の上で水を垂らして練り混ぜた。
……今、皿がミシッって言ったぞ。
「たっぷりと前金も渡されたそうで」
勝千代は、和睦を損なうどこぞの軍ではなかったことに安堵していた。
大枚はたいて左京の浪人を雇ったというのなら、十中八九伊勢殿だろう。あるいはその配下の、庶子兄あたりかもしれない。
浪人とはいえ、あれだけの遠射ができる者たちだ、事前に雇い集めておいたのだろう。
「無事獲物を狩り取ったあかつきには、大身への仕官がかなうそうです」
弥太郎は小皿をミシミシ言わせながら薬草をペースト状にして、それを清潔な布の上に広げた。
……なにこの臭い。
青臭いというか、すっぱいというか……ぜったい染みる奴だろう! もはやそれ、刺激臭だから!
「ま、待て」
むき出しの傷口にその布を当てようとしてきたので、両手を前に出し全力で身を引いた。
対する弥太郎の目は静かに凪いでいる。
それを見て、不覚にも、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。




