27-7 下京外 宿場通り 謁見後
そっと腕を引かれ、ぱちりと我に返った。
「……お勝さま?」
小声で名を呼んで、顔を覗き込んできたのは三浦だ。
勝千代はその好青年風の顔をぼんやりと見上げ、「……ああうん」と応えを返す。
「ご叱責を賜られたわけではないのでしょう?」
もの凄く心配そうな表情だ。
じわじわと戻ってくる現実感に大きく深呼吸して、ほんの少し鼻を蠢かせた。
森林の匂いに混じって、まだあのいい匂いが残っている。
促され、行きは恐れ多い事だが抱き上げられて運ばれた登り道を、帰りはとぼとぼと己の足で下った。
一言一句とまではいわないが、お話しになった内容は覚えている。
思慮深く語られた御言葉のひとつひとつに、納得と同時にもどかしさを感じていた。
「断られてしまった」
勝千代はぽつりとこぼし、小さく息を吐いた。
例の米蔵を有効活用して頂こうと思っていたのに、あっさりと首を横に振られてしまった。
父帝を弑した武家からの献金だからか、差し出したのが年端も行かぬ子供だったからか、懐事情は察して余りあるのに、要らぬと仰せだ。
「気持ちはありがたく受け取る」と仰られたが、御所も全焼してしまったこの状況下で、気持ちだけでは立ち行かぬはず。
口添えを求めて権中納言様を見たが、返ってきたのは軽く左右に首を振る、否定ともとれる応えだった。
勝千代自身にも手に余るものなので、是非とも有効利用して頂きたかったのだが……いや、諦めるのはまだ早い。
帝が崩御なされたら、本来、宮中での儀式的なものが日ごとに執り行われる。
昭和天皇が土葬だったという印象から、陵墓のようなものを建てるので、そのために費用が嵩むのかと想像していたのだが違った。
帝の亡骸は泉涌寺で荼毘に付される。仏教の埋葬方法だ。
御遺骨は陵に建てられた納骨堂に納められるのだとか。しかも先に亡くなられた皇族の方々と合葬だ。
勝千代にとっては身近な埋葬方法だが、戦国時代では珍しいのではないか。
そのどのあたりに費用が嵩むのかはわからないが、先代の帝は先立つものが用意できずになかなか弔う事が出来なかったと聞く。
そんな思いを、繰り返したくはないはずだ。
勝千代は躓かないよう足元を見て歩きながら思案した。
どうすれば抵抗なく受け取って頂けるだろう。
武家の献金が駄目だというのなら、寺からというのはどうだろうか。
いや、これ以上興如に頼みごとをするのは……
「そこに木の根が」
明るい月夜とはいえ、木陰になっている小道は若干の急勾配だし、凸凹と足を取られるものも多い。
逢坂老が声掛けしてくれなければ、派手に足を引っかけて転んでいた。
「うおっ」と声にならない悲鳴を飲み込み、差し出された幾つもの腕に助けられる寸前、なんとか転ばず踏みとどまった。やれやれ。
ふうと安堵の息を吐いた勝千代に、周囲はようやく緊張を緩めたようだった。
「和睦は成りそうですか」
逢坂老にそう問われ、「……たぶん」とあやふやな応えを返す。
両軍の和睦への勅令については、亡き帝の御名で出されるそうだ。この先もしばらくは、御存命だという事になるという。
やはり暗殺されたなどという前例は、公にはできない事なのだろう。
そのあたりがどうなるかについては、勝千代がかかわる問題ではない。
ともあれ、これで戦いは停まるはずだ。
たとえ続けたいと思ったとしても、あからさまに勅令に背く真似をするわけにはいかない。「帝は崩御されたはず」などと言い立て、戦い続けようとすれば、逆に顰蹙を買い、その優位を失う事にもなりかねない。
帝にはもはや力はないと誰もが心で思っていても、将軍という権威を与えてくれるのはただ御一人なのだから。
事態は目論見通りに動いている。
かなりの力技だったが、和睦が成立してくれれば、今川も北条も伊勢殿に合力せずに済む。
勝千代はふと、雲一つない晴れ渡った星空を見上げた。
木々の間から覗くのは、くっきりと切り取ったような、見事なまでの星空だ。
「和睦の成立を見届けてから、遠江に帰還する」
宣言するようにそう言って、ひときわ明るいオレンジ色の一等星を見上げる。
まず逢坂が、次いで残りの者たちが頭を下げた。
ひんやりとした風が山から降りてくる。
急な強風に木々が騒めき、まるで山が応えを寄こしたようだった。
それ以外の、特別な何かを感じ取っていたわけではない。
気づいた時には、谷が真横にいた。
土井と南もぴったりと勝千代の前後を塞いでいる。
三浦が片手を岩につけた妙な体勢で身構えているのは、斜面なので立ち位置が不安定だからか。
「……何者」
逢坂老が低い声で誰何した。
この近辺には今川軍がうろついているので、滅多な者は近づけないはずだが……
闇に浮かび上がったのは、灰色の狩衣の男だった。
鶸だ。
勝千代の周囲は、その姿を目視して若干警戒を緩めた。
先程から勝千代と例の客人とを取り持つ役割をしていたからだ。
勝千代もまた警戒を解き、なにか伝言でもあるのかとその顔を見返した。
鶸は何も言わずに勝千代をただ見ていた。
普段から考えの読みにくい面立ちの男だが、その無為の沈黙こそが、何よりも雄弁にこの先の異変を予告していた。
 





 
  
 