27-5 下京外 宿場通り 奇襲
シュタッと消えるのなら、どうやったのかわかる。
だがしかし、幽霊のようにスーッと姿を消すのはどういう原理だ?
「所属不明の兵が川を渡ってきています。数は目算で三百」
宮様というパワーワードから意識を逸らそうと、鶸の退場の仕方に首を傾げていた勝千代は、上がってきた報告に「……そうか」とひと言、うわの空で答えた。
「二十は斥候だったようですな。弥三郎殿の背後を突く算段でしょう」
逢坂老の言葉にも、小さく頷きを返すだけだ。
夜討ちの兵が増えたことについては、ある程度は予想していたので、たいした驚きはない。
それでも伊勢殿の残存兵力の半数には届かないので、許容範囲……というよりも、甘い攻めだといえる。
二十の兵はあっというまに溶けて消え、追加の兵についても大きな問題ではなかった。
川を渡り切る前に叩けばいいのだ。
夜討ち奇襲も、事前に知っていたら優位に立てるのは待ち構える方だ。
弥三郎殿は背後を突かれた形だが、布陣した場所から引くことはなく、攻めてきた三百の兵を岸に上がらせなかった。
うおーっ! と掛け声をかけて背後から奇襲されたが、振り返りざまもっと大声の咆哮をお見舞いした。怯んだのはもちろん奇襲を掛けてきた方だ。
戦に慣れた今川軍と文官系の伊勢氏の兵では、同じ歩兵でもその質が違う。
足場の有利さと戦意の高さが、数の不利をあっけなくひっくり返した。
おおよそ攻撃を防ぎ切り、川から上がってくる敵が居なくなる頃合いで、本陣からの援軍五百が到着した。
その歩兵部隊の先頭に立つのは、十騎ほどの葦毛の軍馬だ。
夜目にも鮮やかに、青い鎧兜で完全武装した朝比奈殿が、サラサラロングヘアを靡かせて颯爽と登場する。
明るい月明かりのもと駆けつけたその姿は、まるで絵にかいたように見事な眺めだった。
……いや、かっこいいよ。すごくかっこいい。この場に女性が居たらヒーローの登場にキャアキャア言いそうなほどには見栄えがする。
でもね……見ていてちょっと気の毒になってきた。オーバーキルすぎるのだ。
こちらが勝鬨を上げるまでもなく、敗走し始めた兵士たちが、情けない悲鳴を上げたのがひどく耳に残った。
武器を投げ捨てた兵たちは、腰までの深さの川を、じゃぶじゃぶと必死でかき分け下京の方向へ逃げて行く。
途中深みで足を取られ、幾人かが転ぶ。だがそれに手を差し出し助けようとする者はいない。
その背後から、弥三郎殿の配下の兵たちが鬼のような形相で追い立てているからだ。
「ご無事で」
少し離れた位置で下馬した朝比奈殿が、下京の方へじっと目を凝らしている勝千代の傍らに立つ。
ふたを開けてみるまでもなく、伊勢軍の攻撃は惨敗に終わった。
いや、相手はどこの軍かわからないよう家紋などを外した状態で攻撃してきたので、正しくは「正体不明の兵」による奇襲だ。
「そちらは?」
「拘束しております」
「まだ何か知っている事があるかもしれません、口は利ける状態にしておいてください」
「……はい」
若干不満そうなのは気のせいではないだろう。
このタイミングで、朝比奈殿が宿場通りに兵五百を連れて来る事が出来たのには理由がある。
宿場町を襲うより少し早い刻限に、今川本陣に例の太っちょ文官近藤が意気揚々と帰還したのだ。
逃走してから、伊勢殿の懐に潜り込んだことは確認している。いずれ程良いときに釣り上げる餌として放置していたのだが、そうする前に自分で戻ってくるとは。
あの男、奇襲により勝千代はすぐにも死ぬと思い込んでいたようで、その発言に驚いた井伊殿により速やかに拘束され、事情を吐かされた。
つまり、この奇襲は事前に予測されていたし、実際に今夜だという確証のもと待ち構えられていたのだ。
「一足遅れました」
逃げ帰る敵兵の後ろ姿を見てそんな事を言う朝比奈殿に、勝千代はちらりと視線を向けた。
弥三郎殿の兵で十分事足りていた。更に五百は多すぎる。敵を跡形もなく粉砕するつもりだったのか?
「……十分です」
それより相談したいことがある。
だがおいそれとこの場で口にできる事でもなかった。
勝千代は、明るい月に照らされた敗走兵の後ろ姿を見送ってから、深追いはしないようにと指示を出した。
井伊殿が駆けつけてきたのは更にそれから四半刻ほど後だった。
たった十騎ほどの少数で、大急ぎで来たらしい。
勝千代が討たれたという心配をしたのではなく、近藤の口から出たとある情報を急ぎ伝える必要があったからだそうだ。
しかも、人払いを願い出てきた。勝千代の周辺にいるのは、信頼置ける者たちだとわかっていてのその発言。なにがあった?
勝千代は、その強張った丸顔を見上げて、とっさに耳を塞ぎたくなった。
もうすでに宮様の件でいっぱいいっぱいなのだ、これ以上余計な話は聞きたくない。
「御屋形様が?」
そう問い返した勝千代の声は、自身でわかるほど震えていた。
近藤は、御屋形様は近々息を引き取るだろう、あるいは、すでにもう身罷ったかのような口ぶりだったというのだ。
毒殺? 刺客でもいたというのか?
いや、今年に入ってずっと体調は危ういと聞いていた。今さら誰もそんな危険な橋は渡らないはずだ。
「若」
ぎゅっと目を閉じた勝千代の顔を覗き込むのは、逢坂老だ。
気持ちを整えて目を開けると、大人たちは皆心配そうにこちらを見ている。
逢坂老は勝千代の顔色を見て言い淀んだが、毅然とした顔を作って言葉を続けた。
「鶸殿が」
勝千代は再び固く瞼をとざした。
御屋形様の体調不安についてはずっと前からの事だ。
ゆっくりと息を吸い込み、吐き出す。
今はそれよりも、『お客人』の件に集中しなくては。




