27-4 下京外 宿場通り 崩御4
東雲が青白い顔を引きつらせながら叡山に戻った夜。
その日は一日中快晴で、夜になっても上空には雲一つなかった。
遮るもののない月あかりが燦然と輝き、その下で文字が読めるほどにくっきりと周囲を照らし出している。
風の音ひとつしない、奇妙なほどの静寂。
厠への帰り道、ぽっかりと孤高に浮かぶ月を見上げて、込み上げてくる不安を振り払うように手の水気を拭った。
この時代には、夜を昼間のように照らす照明も、繁華街のざわめきも、電車も車の音もない。
だが自然のたてる物音は、思いのほか騒がしいものだ。
木々がざわめき、夜行性の鳥が甲高く鳴く。どこかで野犬の遠吠えも聞こえた。
それがふと途切れたように感じたのは気のせいか。
いや、違う。
護衛たちが拍子を合わせたように同時に身構え、刀の柄を握り締めている。
ゆっくりと手を拭いて、その濡れた手ぬぐいを丁寧に折りたたむ。
やはり来たか。
落ち着いてそう思える八歳が、この世にどれぐらいいるだろう。
だが勝千代はこの四年、命を狙われるというスリリングな状況が常態だったのだ。
この宿場通りは今現在、素人目にはわからない部分で厳戒態勢が敷かれている。
寝静まった宿が立ち並ぶ通りに見えて、その一軒一軒に多くの兵士が不寝番で待ち構えているのだ。
逢坂老も朝比奈殿も、井伊殿も弥三郎殿でさえ、今夜あたり「客人」が来るのではないかと考えていた。
現状、伊勢殿が打倒すべき敵は細川家だが、状況を把握できているなら、勝千代を大きな邪魔者だと感じているはずだと。
……数え十歳の子供に大人げないよな。
今の伊勢殿にそんな余裕はないだろう、という勝千代の意見を楽観し過ぎだと諫め、彼ら自身、本陣泊りと宿場泊まりを交互にシフトを組むような体制にした。
勝千代自身も本陣と宿とを行ったり来たりし、できるだけ所在を特定できないよう気を付けるようにした。
それでも、来るときには来るのだ。
「……忙しい男だな」
「さようにございますな」
勝千代の独白に応えたのは、今は休んでいるはずの逢坂老だった。
その傍らには、昼番の側付きや護衛たちがきっちりと武装した状態で並んでいる。
「要石を砕かねばと気づくあたり、目端の利いた御方です」
要石?
勝千代が連想したのは、碁石の並びだ。いやいや、子供にそのような重要な役割が回ってくるはずはない。
せいぜい目障りな飛び石の役だろうよと含み笑い、「用意は」と問う。
「はい。奥まで誘い込み、弥三郎様が背後から詰めます」
「敵の数は」
「徒歩の兵二十」
忍びでもなく、歩兵の二十はいかにも寡兵だ。
待ち構えている数はその十倍、弥三郎殿も同程度の数を率いてくるはずだぞ。
「ただの火の粉だな」
「せめて百はないと手ごたえにもなりませぬ」
ふん、と鼻を鳴らす年寄りに呆れた目を向ける。
想定としては、伊勢軍の半数が最大だろうと考えていた。
今川軍とは敵対したくないだろうから、忍びによる奇襲の可能性もあった。
結果は……伊勢殿が何を考えているのか、ますますわからなくなる。
「失礼いたします!」
不意に、足軽の装いの男が少し離れた位置から声を張った。
勝千代の周囲には脳筋福島勢が集合していたので、側に寄ることができなかったのかもしれない。
何かあったのかとそちらを見ると、どこかで見た気がする顔が必死の形相でこちらにアイコンタクトを迫っていた。
いや、見た気がするどころじゃない。あいつ弥太郎の配下だ。
「どうした」
勝千代が識別したということは、それ以上に目端の利く谷らはもちろん気づいただろう。
嫌な予感がした。
手招かれ、近づいて来た男はこわばった表情をしていた。
よほどの知らせか、伊勢殿の夜討ちに何か他の要素があるのか。
「叡山から若君にお客人が」
「客? このような刻限に?」
子供でなくとも普通寝ている時間だし、わざわざ夜討ちの最中にと言うのも奇妙だ。
だが叡山から、ということは公家関連だ。追い返すことなどできるわけがない。
勝千代は、蛙のように這いつくばっている男をまじまじと見下ろした。
普段は勝千代の影供を務める事が多く、私的な会話などかわしたことはない。だが四年間も同じ空間にいたのだ、決して気弱な気質ではないというのはわかる。
そんな男が、夜目にもわかるほどダラダラと脂汗を流し、息さえままならない様子ではいつくばっているのだ。
「……弥太郎は」
この状況を説明してくれそうな男の名前を挙げてみると、ひゅっとその喉が鳴った。
「鶸殿のお相手を」
しわがれた声は、若干震えてさえいた。
鶸がいるということは、東雲か? 数時間前に別れた時のこわばった表情を思い出す。
まさか、物騒なことになっているんじゃないだろうな。
「わ……若君」
意を決したように何かを言おうとしたが、それは言葉にはならなかった。
ふっとその真横に沸いて出るように、白い狩衣の男が姿を現したからだ。
……いや、狩衣の色は白ではない。灰色だ。
「鶸」
谷らが動く前に、勝千代がその名を呼んだ。
普段から東雲にぴったりついて回っている彼もまた忍びである。
「あまりうちの者を虐めてくれるな」
勝千代がそういうと、鶸はじっとりと目をすがめた。
「よう言わはります」
なんだよ。まるでこちらの方が悪いと言いたげだな。
屋敷の外から、わあわあと大きな声がした。
宿場通りに差し掛かった伊勢の歩兵へ、今川の伏兵が襲い掛かったのだろう。
勝千代と鶸は同時に同じ方向に目を向けてから、再び視線を合わせた。
「お客人がいらしているとか」
「これで確証を得る事が出来ました。宮様の周辺に虫がいるようで」
鶸はそう言って、勝千代に丁寧に頭を下げた。
「夜討ちの兵を追い払うまでお待ちくださるそうです。御励み下さい」
勝千代は夜の闇に浮かんで見える鶸の姿を呆然と見上げた。
喉がカラカラに乾く。
今……宮様、と言ったのか?
京訛りの忍びは、ぽかんと口を開けた子供に真顔で頷きかけ、現れた時と同じように、すうっと消えた。
陛下とか殿下とかという敬称は、西洋のイメージがあります。
実際は古くからあるようで、天皇の息子は殿下と呼ばれていたというような記載もあります。
迷いましたが、東宮を殿下と呼ばせるのはちょっと違う気がしました。
東の宮様でいいのか?
あと東宮の息子もです。宮様ではないですね。皇子ですよね。殿下でもない?
見識のある方、御意見を伺いたいです。




