26-3 叡山 雷雲一過3
一条権中納言様が激昂なさっているのは、その後ろ姿だけでわかった。
普段は感情の起伏の少ない穏やかな方なのだが、その肩が大きく上下し、握り締めた扇子がバキバキ折れる音がしている。
ここまで怒らせるだけの何かがあったのだろうが、武家の子供である勝千代が口を挟むことはできない。
その場にいた者に目で状況を確認しようとしたが、武家の者は誰も顔を上げておらず、ひたすら空気に徹していた。
権中納言様が「わきまえる」云々と口になさっていたから、今川軍の誰かが非礼な真似をしてしまい、それがトラブルの原因になったのかと思っていたが……話の推移を聞くにそうではなさそうだ。
「……万里小路家の方々よ。第二皇子の御生母の御実家の」
こっそり耳打ちしてくれるのは東雲だ。
東宮には皇子が二人いるが、年まわりもほとんど同じで、宮中でもとにかく張り合う事が多いのだという。
そして、第一皇子を諦める云々の話は万里小路の周辺から出てきたもので、それを聞いた一条権中納言様はたいそうご立腹なのだそうだ。
「お勝殿は関わらん方がええ」
東雲に言われるまでもない。
自身の事ですらままならないのに、やんごとなき方々の御家事情に首を突っ込むつもりはない。
勝千代は周囲を促し、その場で膝をついた。
先程からちらちら公家衆から見られている。
あまり良い感じの視線ではない。
「なにゆえにこのような所に童子がおるのや」
そう言ってきたのは、おそらくは集団の中では最も身分が高そうな男性公家だ。
ごく普通の京訛りの男性の声だった。視線はなんとなく嫌な感じだが、声色は柔らかい。
非常に答えづらい質問だったが、悩む必要はなかった。武家の、元服もまだの未成年。殿上人である高貴な御方に直答は許されない。
「ここは子供のおってええところやない。目障りや、早う下がれ」
もちろん勝千代は一段頭を低くして、お望みのままにと下がろうとした。
だがその直前、地面に落としていた視界の片隅に、真っ白な狩衣の袖がひらめいた。
東雲が勝千代の前に立ったのだ。
「勝千代殿が下がるという事は、今川軍もここを去るという事ですけれども」
ぱっと扇子が開かれる音がした。
……勝千代には黙って辛抱しろと言っておいて、随分と喧嘩腰だ。
「細川京兆軍がまたそぞろ仕掛けて来ぬとも限りませぬ。よろしいのですか?」
「藤波のかわりもんか」
顔を伏せていてもわかる。かなりの上から目線で鼻を鳴らされた。
確かに東雲は半家藤波一門の当主の弟という、ほとんど無位無官の立場だ。対する相手は万里小路家、公家の家格としては名家。しかも今代で皇子の生母を出している。
はた目にも明らかな家格差があるが、忘れてはならない、もう御一方、摂家一条家の権中納言様もこの場にいるのだ。
「これ以上非礼な口を利くのは許さぬ」
はんなりとした京訛りのはずなのに、権中納言様の口調は鋭く厳しかった。
「今川がおらずして、昨晩の襲撃が凌げたと思うてか」
「何を言わはります」
半笑いの声が、高らかに言った。
「御上が無かったことにと決めはったやないですか」
……大体の事情はわかった。
一条家と張り合っている万里小路家は、帝を守り敵を撃退したという今川の、いや一条家の実績を完全に無かったことにしたいのだ。
あるいは、今川軍が叡山を守っているこの状況そのものを、面白く思っていないのかもしれない。
別にそれでいいのではないか。
低く頭を下げたまま、勝千代は思った。
もともとそういう話だったし。
帝の御意思はこれ以上の混乱、諍いをなくしたいという所だろう。
それにかこつける勢力が出てくるのは仕方がない事だ。
ただ、無かったことにされたとしても、事実は消えない。しばらくの間は、それらしい噂として人の口にのぼるだろう。
ただ、人の興味は移ろいやすいもの、どんな噂も黙っていればそのうち下火になる。
それをあからさまに消そうとすれば、かえって独り歩きしてしまうだろう。
その匙加減さえ間違えないでいてくれれば、多少の牽制ぐらいどうということはない。
「それでは、我らは下がらせていただきます」
勝千代が、東雲に聞こえる程度の小声で言った。
「後の事はお任せいたします」
諸々、頼んだことをお願いね。
言外にそう告げてから、すすっと膝立ちのまま後ろに下がった。
背筋を伸ばして万里小路集団に対峙していた東雲が、ぎょっとしたように足元(勝千代)を見る。
勝千代はそれに視線を返すことなく、失礼にならない程度の素早さでその場から距離を取った。
少し離れた位置で腰を起こし、ちらりと公家集団の方を見ると、権中納言様も東雲も心配そうにこちらを見ている。
何かを言おうとしていたので、軽く首を振り、もう一度頭を下げた。
万里小路の方々は真逆に勝千代たちをいない者のように無視していた。露骨すぎてむしろ失笑しそうだ。
さすがに笑っているのを気づかれるわけにはいかないので、勝千代は顔を伏せたまま素早く……ええっと、どこへ捌ければいいのだ?
「こちらへ」
逢坂老が中腰のまま導いてくれた。
誰もが関わり合いになりたくないと思っていたのか、撤退は見事なほどに素早かった。




