25-1 叡山防衛1
朝倉軍は上京から撤退することを受け入れた。
兵糧がどうしても必要な朝倉軍にとっては、内心がどうであれ、受け入れざるを得ない条件だった。
米蔵に手が出せない伊勢殿には、朝倉軍を食わせる事は出来ない。
にんまりと悪い顔で笑っている井伊殿を横目に見て、一瞬だけ伊勢殿が気の毒になった。
出口も入口も念入りに塞いだのだろう。偶然発見された隠し通路を知るのはごく少数、そこからのみ米を運び出すことが可能で、鴨川より東側のその洞窟に伊勢殿はきっと気づけない。
「隠し通路を塞ぐように布陣させています。高野川にほど近いので、飲み水の心配もなく、兵糧もたっぷり。一年どころか数年居座ることもできますぞ」
いや、さすがにそんなに長居するつもりはない。
勝千代は底意地が悪い顔をしている井伊殿を眺め、「楽しそうだな」とため息をついた。
叡山には逆方向からも登ることができるし、大軍を率いるのは難しいが、尾根伝いに攻め込むことも不可能ではない。
つまりはあまりにも長居しすぎると対応策を取られ、逆に難しい事になる可能性もある。
「朝倉軍に淡海方面を守らせれば、六角の押さえもでき一石二鳥では?」
勝千代の目線が淡海沿いに向かうのを見てその危惧を察したのだろう、井伊殿は若干トーンを落とした声で、それでも、どう贔屓目に見ても何かを企むような口調でそう言った。
井伊殿は本質的に戦略家なのだ。目的を達するためにどうすればいいのか常に考えている。
これまで限られた資源で井伊谷を守る事ばかり考えていたのだろう、潤沢に兵も兵糧もあるこの状況が楽しくて仕方がないようだ。
「……六角か」
勝千代は床の上に置かれた略式地図を見下ろし腕組みした。
淡海とよばれている琵琶湖の周辺は豊かな穀倉地帯で、そこを所領とする六角家は兵糧に困ることがない。
京に程近く、物流の面でも便がよく、おそらくは人口も多いだろう。
恵まれた立地だ。だからこそ、虎視眈々とその失墜を狙う敵も大勢いるはずだ。
「浅井」
勝千代がつぶやき首を傾げると、井伊殿は無言のまま碁石をひとつ、地図外にある美濃のあたりに置いた。
勝千代はまじまじとその碁石を見下ろして、「どうだろう」と更に首を捻る。
「土岐氏はそれどころではないと聞きますが」
うちで引きこもっている奴からの情報だが、御家騒動が活発化し、美濃守護土岐氏ではその配下の者の方が力を持ち始めているという。
ちなみにあの男のおすすめ仕官先のひとつでもあった。揉めがちな家が出世を狙うには絶好だという。……参考になるようでならないな。
美濃と言えば、勝千代が知っているのは斎藤道三ぐらいなものだ。確かあの男はもとは油売りだったという。出自が油売りの武将と言うのは聞いたことがないので、隠しているのでない限り、まだ世に名が出てはいないのだろう。
もしこの先斎藤某と名乗る、もと油売りの武将が出て来たら、今の年代のおおよそが把握できる。
応仁の乱から「いちごぱんつ(一五八二年)」で有名な信長没の時代までどれぐらいの年代を経たのかもはっきり覚えていないが、それまでのどの時期かで桶狭間の戦いが起こり、今川家は衰退していく。
斎藤道三の娘が信長の正妻になった後の事だと記憶にあるので、それだけでもおおよその年代が絞れるのだ。
まあ、今のところ織田家はささやかな勢力だし、信長が生まれてきたという気配もないので、まだまだ先の話だとは思うが。
「ともあれ、今の我らにそういう事を考えている余裕はありません。深入りせずに遠江に帰還するべきです」
「……そうですな」
井伊殿は隠そうともせず残念そうにつぶやき、美濃あたりに置いた碁石を拾い上げた。
「勝千代殿はまず駿府のほうを片付けるのが先決ですな」
「井伊殿」
それ以上は言わせまいと、強い口調で名を呼ぶと、井伊殿は「おっと失礼」と大げさに手で口を塞いだ。
最近、井伊殿を筆頭にとある動きが露骨になってきた。
遠江勢の各家の当主たちが、こぞって勝千代に恭順の意を示しているのだ。
それはまずい。
今川家の当主は御屋形様で、その後継者も決まっている。妾腹出の勝千代に余計な野心があるとみなされると、今以上に厄介なことになるだろう。
「……時期を見誤られるなとだけ申し上げます」
中肉中背に丸い顔、人当たりは温和で配下に対しても親身だ。
言葉で表現するとどこまでも「いい人」っぽい男なのに、その性根は油断のならない狸オヤジである。
「その話はまたいずれ」
勝千代はため息を飲み込んでそう答え、一礼して部屋に入ってきた朝比奈殿に目を向けた。
「どうですか」
勝千代がそう尋ねる前に、朝比奈殿は入室してすぐ丁寧に頭を下げている。
これもどうかと思う。
朝比奈一族は今川家でもかなりの勢力を有する譜代衆だ。朝比奈殿の主城は遠江にあるので、遠江の国人衆に混じっていても何の違和感もなかったが、よくよく考えると朝比奈家はどちらかというと駿河衆に近い。
もともとは御屋形様の側近として遠江に攻め込んだ側なのだ。
「はい。兵糧の一部は無事渡し終えました」
露骨なまでの下座。しかも従順に命令を受け入れ、一ミリも勝千代の意思に沿わない事はしないと言いたげな雰囲気。
井伊殿などは、完全に撤退が済むまで兵糧は渡すべきではないと言い張っていたのだが、既に飢え始めていると聞いた勝千代が半数を先に渡すと決めた。
それについての朝比奈殿の意見はなく、「わかりました」の一言で結論がついた。
井伊殿は呆れた顔をしていたし、勝千代も従順すぎる態度に強い不安を感じたが、周囲にはまだ他の者の目もあったので、その場では何も言わずに話を流した。
一度しっかりと釘をさしておく必要がありそうだ。
「朝倉軍の総大将が、出立前に礼が言いたいと申しておりますが」
さも「断っておきますね」と続きそうな朝比奈殿の言葉を遮って、勝千代は「ちょっとまて」と手を上げた。
粗い和紙の上に描かれた、あちこち墨の滲んだ不格好な地図を見下ろして、顎をさする。
「越前に戻るには、淡海の東を通って北に抜けるのでしょうか」
「そうですね。最も行き良い道を選ぶのであれば」
向かいで地図を見下ろしていた井伊殿が首を傾げ、こちらの意図を問うように視線を上げる。
勝千代はしきりに顎を擦りながら、もう一度あの恐ろし気な男と話しておくべきだと判断した。




